>>先にいる人 「あら、楽しそうですね」 怜悧な双眸を緩め、まだ少女の域を出ない副官を伴い書庫へ赴く途中、偶然窓から目に入った光景に足を止めた。薄い羽を束ねた扇が湖からの涼やかな風で揺れ、気候の良い空の下、湖面に程近く誰も居らぬ日光浴にでも良さそうな城内の空き地で、薄く月を溶かし込んだ様な金糸が煌く。外の様子に気付かず、首を傾げた副官に、何でもありませんと笑い、止めた足を再び書庫へと向かわせる。 窓を背にしたルクレティアの耳に、小さく剣戟が聞えた。 交わし始めて既に数合、相手を読むことに長けた者同士では長いか短いか大抵どちらかになる。 「帰還して随分経つのにお疲れ気味ですかー」 「抜かせ」 軽口を叩くカイルが返した刃が、見切り辛い動きでゲオルグを襲う。眉一つ動かさず跳ね返そうとしたゲオルグの、細い白刃と交わる寸前、カイルは飛び退って間合いを取った。愉しげに笑う表情は普段と変わらず、ともすれば仮面の様でもあるが、唯一つ蒼い瞳が冷たく凍てつきそうな程の色で飾られている。戦闘等、余人と剣を交えることに好戦的と言うより、ただ冷徹に見据えているカイルからは、殺気ではなく不可思議な気配が醸し出されていた。 ゲオルグが知る本人の気質からすれば納得は出来るが、傭兵を生業としている見地からすれば、殺気の篭らぬ白刃は珍しい。それだけでは無く、殺気が篭らぬ分先が読めない云々以前に、攻へ転じ相手の命を絶とうとするならばあるはずの気迫が薄い。身に付けている鎧すら、擦れる音を立てぬ。ゲオルグさえそうなのだから、ともすれば掻き消えそうな気迫は、並の、否腕が立つ人間でも読み取れないだろう。おまけに、命を絶つ瞬間に出る殺意すら見えない、本気なのか牽制なのかの判断も常人であれば付かない。 風が舞い、合わせてゲオルグは刀に鞘走りの音を立てさせる。カイルの首筋を狙った白刃は、寸前、片刃の腹で止められ、自然カイルと視線が交差した。 「それ、普段使ってるのと違いますよね」 「あれは鍛冶屋に出している。これは切れ味は良いが手入れが難しい」 「知ってます」 肯定したゲオルグの腰には、いつもの少し大きめの剣とは違い、細長い漆塗りの鞘が下がっている。黒塗りの鞘に合わせて、黒い柄巻に黒い下緒、一見漆黒に見える組み合わせを選んだのは誰であろう、ゲオルグをこの国へと招聘した友人だった。 「もう一本、同じ類のものもあったんだがな。試斬して俺には向かんと止めた、刃が毀れ易い」 これも知っているだろう、と言外に尋ねるゲオルグにカイルは首肯して、口角を上げたゲオルグと同じ様に口端を小さく上げる。ゲオルグが選ばなかった刀は玉鋼という材質で作られたものなのだろう、刃紋は人を魅了する程見事で美しかったが、カイルにそれを見せた男が、これは使えぬと漏らしていたことを思い出した。使える物もあるらしいが、取り合えずこれは打ち合うものではなく鑑賞するものだ、と笑う姿に苦いものは無かった様に思う。 彼は彼で、精巧で、静謐な空間を生み出す刀を好んでいたのだろう。二本あった他国からの献上品を友人に下賜、否、気軽に譲渡してしまえる所は豪快奔放な性格故だったか。 「ええ、綺麗でした」 俺も見せてもらいましたから、とだけは喉の奥に飲み込んでカイルは不意に剣を持つ手を緩める。力の拮抗を失い、滑ったゲオルグの刃がカイルの白い頬へ赤い線を入れ、束ねていた髪の間を突き抜けて行く。音も無く切れた、数本の髪が吹いて来た風に飛ばされた。 刀に押されて流れたカイルの剣が返る前に、ゲオルグは大きく間合いを取る。機敏さに瞠目するでなく、カイルは剣を持つ手をそのまま手元で翻して、一瞬で間を詰めた。その、他人事の様に瞳に眼帯を映し込む様を見ながら、ゲオルグは、柔らかく、舞を舞うように攻め来る剣と数合交え、再度距離を取って抜いていた白刃を鞘へ戻す。 足を止めたゲオルグの思惑に、カイルも止まり、軽く剣を持つ手を上げて緩やかに構えた。その構えがいつも違っていることは、共に戦わねば知ることなど無い。湖を囲む木々が、風に鳴る音すら聞えぬ静寂に支配された空間が撓み、鞘走りの硬質な音に数拍遅れて、一際大きな金属音が響いた。 観客などおらぬ場に、二人分の呼吸だけが結審を告げる。 「あーあ、また負けちゃいましたよ」 向かい合った後とは思えぬ程暢気な声の持ち主は、目の前に陽光を受けて白く光る切っ先を突きつけられながらも、双眸を伏せることは無い。空より蒼い瞳は、反射で閉じられること無くゲオルグを見据えている。 「精進しろ」 「はーい。ご指南ありがとうございました」 少し膨れた顔で科白だけは残念そうに吐くカイルに、ゲオルグは薄く笑って刀を納めた。 眼前の同僚に、剣の相手をして欲しいと請われて付き合うことも、もう何度目になるものか。得意の紋章を禁じている訳では無く、カイル自身が純粋な剣の向上を望んでいる為、両手に宿された紋章が光輝を放ったことは無い。軽薄そうな態度から受けがちな印象を裏切る様に、頭の切れる男のこと、紋章術と剣術を組み合わせれば最低でもゲオルグと同等にはなるだろう。 尤も、カイルが望まない限り、ゲオルグにその機会は得られそうには無い。 居合いを正面から受け止めて弾かれた剣は、湖に落ちる寸前の所へ、僅かに城に噛まれて身を横たえていた。それを子どもの様な歩き方で取りに行くカイルを見ていたゲオルグは、知らず眉間へ僅かに皺を刻む。城と言う床に傷を付けた己の剣を納めたカイルが、その顔を見て首を傾げた。 「どうかしましたか」 「……いや」 「その割りに、何でも無いって顔じゃないですけど」 不審とは言わないが、不思議そうに見遣ってくる様は、年齢からは考えられぬ程無邪気に思えて仕方が無い。逡巡を止め、ゲオルグは己の腰へ手を当てる。 「―――その剣の材質は何だ」 「ああ、これですか。さあ―――貰ったものなんでよく知りませんけど」 応じた科白に関わらず、相変わらず不思議そうにしているままのカイルに、ゲオルグは鞘へと休ませた刀を再度抜いた。じっくりと刃を検分すれば、細かな瑕が走っている。のぞきこんだカイルが間延びした声で尋ねた。 「研ぎに出しますか」 「いや、この程度なら要らんだろうが」 首を横に振ったゲオルグの視線がカイルの腰へ向かう。明らかに納められた剣へと向けられていた黒曜につられて、動いたカイルの眼差しが緩んだことに、ゲオルグは嫌でも貰い物の贈り主を知らされた。 「フェリドからか」 「あれ、よくお判りですねー。騎士に昇格した時に、やろう、の一言で拝領しましたよ。気に入ったので装飾もそのままです」 少し驚いた顔を笑みで塗り替えた、端正な面の中心で人目を惹く蒼い瞳が、僅かに翳ったことに気付いたが、だからと言ってゲオルグがカイルに何某か言える訳では無い。ただ、友人の執着心の無さに溜め息を吐いた。否、執着心はあったのだろうが、物に対しては希薄過ぎる。 ゲオルグ自身が貰ったこの刀も、確かどこの国からかの献上物だったのであるし、おそらくカイルの剣も無銘ではないだろう。一般に出回っているものにしては切れ味が良すぎる。 見た目からもそれは想像出来たが、実際瑕を負ったことなど無かった刀でそれが実感出来た。ゲオルグが手に持つ刀は、ゲオルグの技量も伴って今まで瑕はおろか刃毀れ一つ付いたことはない。それが、カイルの技量が手伝っているとは雖も瑕が付き、堅牢な城に身を立てることすらしている。 施された装飾も、―――剣が貰いものか、フェリドが直に求めたものかはともかく―――カイルとよく合っている、贈り主の正体を考えると、出所が何であれカイルの為に誂えられたものであることは明白だった。人好きのする豪快で気風のいい友人の顔が瞼の裏に浮かぶ。 「顔が緩んだからな」 材質も知らず、使っていたのは切れ味や使い勝手の良さに相俟って、自分の為に誂えられたものだと判っていたからだろう。フェリドがそれを告げないにしても、気付かない程カイルは鈍くない。 「―――案外意地が悪いって言われませんか」 少しだけ朱に染まった頬より、そこに走った傷の方が―――血を流さぬ程度にしか切れてはいないにしろ―――まだ赤い。 「さあな、面と向かって言われたのは二度、否、三度目か」 「貴方のご友人なら言いもしますよ」 間違うことなく発言の主を言い当てたカイルにゲオルグは肩を竦めた。因みにもう一人は、数年前ゲオルグが士官していた宮廷で誼を結んだ六将軍の一人である。今もってその職に就いているのか、彼の国から遠いファレナでは知る術も無いが、幼い息子の成長を楽しみにしていることは確かだろう。厳しい将軍の顔が緩んだ様を思い出して、口元を緩めたゲオルグの胸中をどう取ったのか、カイルは視線を逸らして呟く。 「確かにフェリド様は好きですけど、俺が一緒にいたいのは貴方なんですから苛めなくたっていいじゃないですか」 「無理はしなくていいぞ」 「してませんよ、だからフェリド様が好きだって言ってるじゃないですか」 「そうだな」 珍しく言い募りかけた様に、悪かったとゲオルグが軽く頭を叩くと、少し目を見開いたカイルが顔を歪めた。泣きそうにも見える面は、だがそれ以上緩むこと無く、通りの良い声を唇から紡ぐ。 「本当ですからね、一緒にいたいのは」 「判っている、俺もそこまで譲歩しない」 友人であったフェリドと同僚であるカイルが情を交わす仲だったことは知っている。妻子も立場もある男が何を、と思わなかったでは無いが、友人はその責を負えぬ男では無かったし、他人の事情に首を突っ込む気など毛頭無かったから特に気には留めなかった。互いにそれでいいのだろう、そう思っていた分、、彼が妻と共に逝去したことを訊かされたカイルが、少なくとも表面上は、通常の反応しかしていなかったことを不思議にも思わずにいた。まあ、そこまで思い入れていなかったのだろうと断じて済んでしまっていたのに、偶然見たカイルの涙と漏らされた言葉に違うのだと知らされた。友人の部下で自分の同僚だったカイルが妙に気になり始めたのはそれからだ。 最初は同情か憐憫だったのかもしれない。 どうであれ、喪失の隙間に付け込んだ話だと思っていたゲオルグに、フェリドが好きだと言いながら頷いたカイルの本心は未だ知れない。ただ、彼の感じている悼みと、偽りを述べるには難しい酷く真摯な科白を疑う理由が無かった。 「お前が気にする必要は無い」 「気にしてません」 「ああ」 仄かに薄紅色をしたカイルの薄い唇が笑みを作る。忘れて欲しいなどとは思わないし、無理に友人を押し退けたい訳でも無い。一緒にいても良い、いたいと言ったカイルの言葉が嘘ならば、ゲオルグ自身の感情など無くしてしまって良かった。尽くす程に、人に思い入れることは、ゲオルグには出来ない。 「―――前も思いましたけど、ゲオルグ殿って案外お人好しですね」 目の前でカイルが綺麗に笑う。フェリドへ向けられていた笑みがゲオルグにも向けられるのなら、それで充分だと思うし、己だけを見て欲しいなどという独占欲を覚える程若くも無い。 ゲオルグとて、純粋に一人の人間としてフェリドが好きだった。群島への中継点の島で再開した彼の父親に、頭を下げることしか出来ない事実を否定しようなどと思わない。友人はかけがえの無い存在に違いなかった。 「それは、二度目だな」 これも一度目はフェリドだったなと思いながら応えたゲオルグに、カイルが面白く無さそうな顔をする。過ぎたことに思いを馳せていたものの、口にした科白は気に障るようなことでは無かったはずだと首を捻りかけたゲオルグに、少し機嫌の悪そうな声音がした。 「それ、フェリド様ですよねー」 「ん、ああ、そうだが。それがどうかしたか」 躊躇せず応えたゲオルグに、大きな溜め息が返される。わざとらしく肩を落とす様は非常に子どもっぽい。 「何だか、何でもフェリド様が先で悔しいですよ」 仕方ないですけど、と言って、ふい、と背を向けてカイルは城内へと歩き出した。本人は意識しているのかいないのか、嫉妬の混じった科白に呆気に取られたゲオルグに、空き地と城の境目で振り向いたカイルが、小首を傾ぐ。自身の発言の示唆するところなど気付いていないのだろう仕草が可愛く思え、込み上げてくる笑いを抑えてゲオルグはカイルの方へと足を向けた。ゲオルグ自身がカイルを思うと同じ様に、意外に自分とてもカイルの内を占めているのかもしれない、思い至った推測にすら、いい年をしても尚くすぐったく感じる自分を、どうにも否定出来そうに無かった。 >>end (06/05/20) |