>>待ち続ける人




湖面に浮かぶ城より今は目を引く水面は、凪いだ中、濁ることなく天上の月を映し出す。

「あー、ゲオルグ殿。お帰りなさーい」
「……ああ。それで、何をしている、お前は」

深く木々が生い茂る中、軍師の依頼を片付けた帰城途中、肌に感じた不可思議な気配を辿った先、仄かに月色をした金糸が見え、常の馴染んだ気配を覚えた。凍てつく、氷の様な殺気を宿していただろう蒼い双眸は、普段の軽薄だけれども限り無く優しい色を湛えている。随分と遠くから切れ切れに感じた可笑しな冷たさ故に、薄々正体を感じながらも柄に当てていた手を外して近付くと、街中で遭遇した気安さでカイルの手が挙がった。綺麗な立ち姿を照らす月の灯りに、色の冴え冴えしさとは逆に温かな温度を覚える。

「眠れなかったので、趣深く夜の散歩ですよ」

肩を竦めて、読めない表情で人懐こく笑う面に偽りは見えない。
親しくとも、それが背を預けられる同僚であろうとも、カイルの柔和さから本心は欠片も読み取れず、それは世間ずれしたゲオルグにも言えることに変わりなく。酷く、年齢に釣り合わぬ程の上手さには驚嘆すら覚えるが、尤もその不釣合い具合も余程注意せねば、普段の軽薄さのみがカイル自身と見誤る。冷静に考えれば女王騎士ともあろう者が、表面上のみの底が浅い輩では話にならない。尤も、八年前、アーメス侵攻の折に拾ったカイルを騎士見習いに取り立てた友人はどこまで見抜いていたのかなど、今となっては知ることなど出来なかった。

「風流な話だがな、もういいだろう」

必要以上に近付くことなく、暗に帰るぞと示唆されたことに、カイルは月光ではっきり見える面を不思議そうにして、首を傾ぐ。

「俺はいいですよ、ゲオルグ殿こそお疲れなんですし」

ビーバーの子は居ませんけど、お風呂はずっと開いてますから気持ちいいですよ、と細まる瞳は優しいかったものの、溜め息を吐いて近付ける分だけ足を進めたゲオルグに、同じ距離だけカイルが後ずさった。そよ風に吹かれて飛んでいったはずの鉄臭さが必要以上に鼻をつく。
無形の刀と聞き、共に戦場を駆けてその腕を目にしたこともあったが、どこをどう工夫しているのか、返り血一つ浴びていなかった。ゲオルグが友人から聞いたところによれば、彼の侵攻の折、同じ義勇軍だった男から基礎を教授されるまでは血塗れだったと言うから、その頃の様は凄まじかったのだろう。指南している手前、腕前は十二分に知っており。

「お前こそ、風呂に入ったらどうだ」

それが今は、普段の戦闘とは正反対に、ゲオルグの前にいるカイルは黒い騎士服を更に漆黒に染め、白い頬を隈取以上に赤い飛沫で彩っている。未だ手に提げたままの刀は、本来の煌きを失い臙脂に濡れ、地面と草むらに小さな水溜りを作っていた。呻き声一つ上げぬ物がカイルを中心に転がり、ゲオルグの行く手を阻んでいる。どこか見た印に凡その事情を察しはするが、よくある話にいちいち気を立てていてはやっていられぬのが現実だから、それについて否やは無かった。王子はともかく軍師は確実に承知の上だろう。
危なげなくまだ生温かい物を踏み越えて近付くと、カイルは今度は退くことなく、易々とゲオルグを間合いに入れた。軽く自嘲の笑みを浮かべ、刀を鞘に納める硬質な音が耳朶を打つ。

「今更入っても中々とれませんけどねー、気持ち悪くって仕方無いですよ」
「自ら仕向けておいてよく言う」
「たまにはいいでしょー、結果は変わりませんし」

転がる男達を見遣ることもせず、言い捨てる貌に翳りは見えない。見えないことを確信出来る程には、ようやくカイルに慣れて来た自負がある。

「構わんが、あまり明け方近くに帰られても困る」

上から下まで赤く染まった見目のいい青年を見て気分のいいものはおらず、弊害もある。カイルとてそれは承知済みのはずだから、そんな愚かな真似はしないだろう。間諜を始末したと言う事実だけでも、戦を知らず汚い部分に慣れぬ仲間の士気が揺らぐ。どれ程よい軍主や為政者であっても抗う勢力があることを、知らぬ人間にわざわざ真実を教える必要は無い。知らねば生きて行けぬなら、いずれ知ることになる。

判っています、と頷いて足を動かし始めたカイルを見とめて、ゲオルグも円を描いて散らばる身体に背を向ける。温かな身体を再び跨ぎながら、後でカイルの自室を訪ねようと、風呂上りの予定を立てた。





扉を開けた先の窓辺で、緩く編まれた髪が騎士にしては細い身体を包むバスローブと絡み、湖からのそよ風が灯火に煌く金色を揺らす。頭の上で纏められていない分、常より長く背に落ちる髪は一層けぶり、輪郭をぼやけさせている。無防備にも思える程一心に窓の外へ向けられている視線を邪魔することは憚られたが、応答があったのだから構わないだろうとゲオルグは閑散とした室内へ足を踏み入れた。

「気にしないで、ずかずか入って来て下さって構いませんよー」

くっきり骨が浮き上がっている足首から伸びる脹脛には傷一つ無いが、その更に上、バスローブと同じ生地の帯で締められた腰は、この城に来た時より幅が狭くなっている。まとわり付いた赤を洗い流し、にこやかな笑みを浮かべて振り向いたカイルは、開けっ放しの扉の前で留まっているゲオルグを中へと促した。

「ほう、上手いものだな」

椅子を勧められ、出された紅茶が、喉を丁度良い温度で過ぎて行く。

「嬉しいですねー、王宮に上がってから身に付けたんですけど中々でしょ」

軍師により数日城を離れていたゲオルグが招き入れられた室内、大きくは無い木製の机上では、男性の部屋としてはあまり思い浮かばないティーポットが、茶葉を底辺近くで躍らせている。仄かに漂う甘い香りを裏切り、注がれた紅茶は清涼感を伴うわりに、柔らかく口当たりが良かった。美味い不味い等二の次の生活が長い分、ゲオルグが味に煩い物は己の嗜好品位であり、その分世辞ではなく美味いと思える物は少ない。要はカイルの淹れ方が上手いのだろうと疑うでなく思えた。

ゲオルグと同じ様に、クリーム色に臙脂の線が施されたシンプルなカップに口を付ける姿は、普段騎士服を身に纏い飾り襷を翻す様からは窺いにくい。ただ、どこにあっても共通している不可思議な、人を食っている様にも思える雰囲気と、室内にいても手の届く範囲に置いてある剣だけは同じだった。それはゲオルグとて変わらずどこに、例えるならカイルの部屋だろうと帯剣しており、またカイルがゲオルグの部屋を訪れても、剣を離したことはない。相手を信用信頼の如何ではなく、身に付いた習性は変えようが無かったし、それを咎め立てなど出来ようはずも無かった。

「寝る前でも平気な性質なので、結構習慣ですね」

風呂上りの石鹸の香りが、紅茶に混ざってほのかにゲオルグの鼻腔を擽る。

「ふむ」
「何か甘い物でも要りますか」
「―――いや、さすがにこの時間帯ではな」

日付を変え、もう数時間もしない内に湖は黎明を映す。物足り無さそうに見えたものか、半分揶揄する様に茶菓子を尋ねて来たカイルにゲオルグは首を振った。
大体、共にいることについて吝かではないとはいえ、元々茶を飲みにこの部屋を訪れた訳では無い。ただ、それとは無関係に、出された茶に―――王宮に入ってから身に付けたという腕前にしては大したもので―――多才なことだと、意外に加え軽い驚嘆を覚えた。尤も、美味いことは美味いが、何かを入れたい気持ちがあったのは事実で、それが物足りなさそうに感じさせたのだろう。

「まあ、いくら好きでも胃に堪えますよ」

形状はどうであれ、チーズケーキは凭れるだろうと笑って、カイルはカップを置くと立ち上がった。仕事用に使っているのだろう、窓際ある冷たそうな石の机の横にある戸棚を探る。
床に着いた膝は冷たくないのか、と思いながら、片側しか現していない目で、背中から肩を滑って前に垂れる滑らかな金糸の束を見ていると、目当ての物を見つけたのか、蒼い双眸が首だけゲオルグの方を向いた。

「じゃ、これはどうですか」

手に掲げた透明な黒い瓶は、部屋の薄明かりの中でも記された文字を読み取れる。拒否しないゲオルグを肯定と見て、カイルはゲオルグの向かいに戻ると、瓶口に施されていたコルクを抜く。動作に促されるまま手にしていたカップを机に置くと、独特の匂いと共に琥珀色の液体が薄赤い紅茶に溶け込んだ。

「ブランデーの香りが強くて紅茶の香りが飛んじゃうんですけどねー、味は良いですよ」

柔らかな顔は、先刻城が見える森の中で見たものと寸分違わない。瓶を置いて、椅子には付かず、ゲオルグが部屋に来た時と同じに開け放した窓辺に寄り掛かって笑う様は、血で塗られていた時も今も―――細工の良い人形の様に白い肌と形の良い顎、中性的で優しげな面立ちが―――表情を読むことを阻んでいる。それでも、味は良いと喋るカイルが今楽しんでいることは判った。
口を付けたカップは、先程より幾分熱く滑らかな感覚を覚えさせる。

「―――よく眠れそうだな」
「それもあります」

目的を果たそうと、会話の流れに含ませた問いにカイルは気付いているのか、眉を動かしもせず受け流した。外気が束ね損ねた髪をゆるりと靡かせ、その風を見極めるかの様に、カイルは石造りの窓枠に両肘を着き、外を見遣る。実際その先が、城からの灯りで揺れる湖面を見ているのか、眩しくも思える月を眺めているのか、それとも全く別のことに思いを馳せているのか、ゲオルグには知る由も無い。

「カイル」

なぜ、あれ程までに手酷く始末を行ったのか、若気にありがちな血に酔った訳では無いのだろうが、ゲオルグとしては気晴らしだろうが何だろうが諌めるするつもりは無い、斬り捨てた後の顔が暗いもので無かったことの方が余程重要だった。大事なものを喪失すれば心が揺らぐのは当然の反応であり、そこからカイルの裡にあるものに折り合いを付けて行けるのはカイルだけで―――多少の助力は頼られればある程度応えはしようけれど―――ゲオルグはカイルがそれを出来る人間だと見ている。尤も、そう思いながら結局カイルの部屋を訪れている辺り、自分がカイルに甘いことを自覚はしているが、何にしろ、現状カイルから察すことが出来るものは何もなく、ただ問うことしか出来ない。

「眠れないか」
「いいえ、ぐっすり」

間を置くことなく返された答えに続け、ゲオルグは更に問いを重ねる。許せないかと問えば、厭うだけと言い、辛いかと酷なことを問えば、いづれ失うものだと判っていたと細い首を横に振った。
事実、味方の振りをして敵方に通じていた間諜などに許せない等と言う強い感情など湧かないのだろうし、許せないとすれば、彼らを麾下に加えた自分達だと答えるだろう。ならば転じて喪失が辛いかとの質疑を、更に押して心情を聞けばおそらく、家族を失った王子達は辛いだろうが、己が失ったものは所詮掠めたものだと答えるのだろう。

「ゲオルグ殿」

呼ばれた名に問いを拒む色は含まれていない。外を見ていた眼差しがゲオルグへと向けられている。

「会いたいか」

直前の問と同じく主語を省かれた問いに、カイルの秀麗な面が僅かに曇るが、ゲオルグを睨むことは無い。一度外を見遣ったカイルは、更に一拍開けて花が綻ぶように笑うと、形の良い唇が動かした。

「今の俺には、貴方がいます」

声に曇りは欠片も無い。釣られる様にゲオルグも薄く笑みを刷いた。

肯定も否定もせず答えを誤魔化す科白は普通ならば当然であるし、ゲオルグとて問うた己の無神経さは承知している。だが、カイルは意趣返しや誤魔化しで答えた訳では無い。会えるものなら会いたいだろう、カイルの中からフェリドの影が払拭された訳でも、ゲオルグ自身払拭したい訳でも無い。ただ、過ぎたことは戻らぬと、それを知っているから願わない。薄情にも思えるそれは、酷く現実を受け入れた強い答えだった。
そして、言葉通り、今カイルと共にいるのはゲオルグであることを、願ったカイル自身を忘れてはいない。真っ直ぐ逸らすこと無くゲオルグを射る蒼い双眸はゲオルグに対するものとしては充分だった。

「早めに吹っ切れますから、傍にいて下さい」

不意に、ゲオルグの目の前で金色が揺れる。窓辺から離れ、カイルは座るゲオルグの一歩手前でぺこりと頭を下げた影が、壁に灯された明かりが瓶で屈折し作り出された光の交差を途切らせていた。

「―――お前が嫌がらない限り傍にいるから、無理はするな」

下げられた頭に苦笑して、ゲオルグはカイルの手首を掴んで引き寄せる。思いの他細い感触に驚きながら、一瞬強張った身体を逃がさず、腕を回してあやすように背を叩くと、ゲオルグの背をカイルの手が掴んだ。

「―――前にも聞きました、それ」
「なら言うことを聞け」

強引に断じたゲオルグに、小さな笑い声が返される。身じろいだカイルに、腕の力を緩めると、合わせて束ねられた髪が音を立てて揺れ、顔をのぞき込まれた。蒼い瞳を隠すように垂れている髪を、ゲオルグが背の側へ戻してやると、空よりも濃い蒼が丸い形を露わにする。それが、つい、と細まった。

「何か変ですよ。普通、前の輩なんぞ忘れてしまえってとこでしょー」

反論をどうぞ、と言わんばかりの口調に、ゲオルグは眉間に僅かに皺を刻みながら器用に肩を竦める。

「それはそうかもしれんが。俺に急かされて懊悩する姿は見たくない」
「何ですか、それ」
「そのままの意味だ。お前が悩むのは気分が悪い」
「―――何だか思わぬ告白ですねー」

要は傲慢な程に甘えて欲しいのかもしれない。思い至った心境に自分でも呆れながら答えたゲオルグに、溜め息を落としながらカイルは笑みを零す。

「やっぱり貴方、お人好しですよ」

呆れた様な仕草をしたわりに、嬉しそうな色で目を装った顔の、滑らかな頤を取る。意を察しながらも、瞼は開いたままのカイルを目の端で笑って、ゲオルグは痩せた身体を引き寄せた。





>>end

(06/05/24)


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