「俺は――――――――――――それでも、俺と来るか」 驚いて、切なくて、それ以上に嬉しくて頷いた。 慣れた次元移動から着いた先、目の前に、大きな家屋が見える。おそらく木で造られているのだろうけれど、太い柱の大きさに驚いて、それより、滅びた故郷よりは緩いけれど、確実な寒さに身を竦めた。静謐な空間に、見慣れた白い物がちらほらと降り落ちて来る。何か呟いた、隣に立っている男の言葉はもう分からず、それでも一緒に居られることが嬉しくて知らず黒い外套を小さく掴むと、頭を軽く撫でられた。 「 」 「ごめんねー分かんないや」 自分の言葉も通じてはいないだろうけれど、以前覚えた謝罪を紡ぐと、いつも眉根の寄った表情が少しだけ緩む。そのまま、ファイに向かって何か言おうとして、こちらに近付く気配に臙脂色の瞳が前を向いた。暗かった屋敷の中から、薄っすらと灯りが透けて見え始めた扉が音も無く片側開かれる。現れた二人にはどちらも見覚えがあって、片側の少女は、あのピッフル国で見た時より少しだけ年を重ねた容貌をしていた。 「お帰りなさい、黒鋼」 ファイにも聞き取れる台詞に、いつもの低い声で答えた黒鋼に、やはりそうなのだと凛とした少女を見遣る。まさに、彼の主なのだと微笑む少女が、にこりとファイへ視線を向けた。 「 」 「 ファイ 」 黒鋼が口にした自分の名前だけははっきりと分かる。 以前、モコナが翻訳機代わりだと知って、ならば本当は自分の声は相手にどう聞かれているのか、と思ったことがあった。たとえば、ファイと言う音が相手にとってはチィと聞こえているのかもしれないのだが、国どころではなく次元が違うのだから、今更気にする様なことでもない。 ただ、隣の男にだけはファイと聞こえて、理解されていたら良い、そんな確かめ様の無い事も思っていたのだけれど、分からない真実がどうであれ、自分の名を呼んでくれることがまるで褒められたようで、こそばゆくて、嬉しい。 「ファイです、えーと、よろしくですー」 二人して何を言っているのかさっぱり分からないが、名前を口にしたと言うことは、自分のことなのだろうと、ファイも改めて名を告げた。黒鋼と一緒に来た経緯とか、話すことは他にあるのだけれどそこまでには到底語彙に乏しく、あの国で覚えた拙い言葉で頭を下げると、身振りでどうぞ、と部屋の中を示される。何も言わずにさっさと家屋の中へ入ろうとする黒鋼の後を慌ててファイも追いながら、その姿に倣って廊下で―――縁側と言うらしいけれど―――靴を脱ごうとして、変わった空気に思わず目を瞬かせた。 「どうした、遠慮するな」 「え―――?」 「どうぞお上がり下さいな、ファイさん」 薄っすらとだが魔力が満ちていることより、唐突に通じる様になった言葉に驚いて、縁側に腰掛けたままで、黒鋼を見上げると、こちらも驚いた顔を見せて主である少女へ尋ねる。 「黒るん、俺の言葉通じてるー?」 「ああ―――何かしてあるのか」 「この屋敷内だけですわ、庭は範囲外です」 相変わらずにこりとした笑みを絶やさないけれど、その笑顔は見ていて安心出来るものがあり。またその傍で控えている女性にも見覚えはあって、何故だか黒鋼を見て驚いた顔をしていた。 「外は寒いでしょう、まずは中へ」 促されるまま、立ち上がる。部屋に入り掛けて、馴染んだ気配に振り向いたファイの目の先で、見慣れた雪が大きさと速度を増して降り始めていた。 コートを脱いでも大丈夫な程、室内は暖かい。部屋の雰囲気からして、足の踵を臀部に付ける、正座と呼ばれる座り方をした方が良いのだろうかと、脱いだコートを後ろへ追いやって座る。ファイの隣に座る黒鋼は胡坐をかいているのだが、気にしない方が良さそうだった。 「こっちではどれ位経ってるんだ」 「三年と言った所ですわね、蘇摩」 「はい、姫様」 出された茶に口を付けながら訊ねた黒鋼に、笑みを絶やさぬまま知世は傅いている女性へ問う。次元を旅した身では、時間の感覚など分からないが、そんなものか、と言う黒鋼を見ると、驚くでも何でもなく、ただ事実として受け止めている様だった。 「国情にも、特に変わりありません」 「ふん、相変わらずか」 呆れた様に聞こえた声音はファイの思い込みでは無いだろう。実の所、黒鋼の世界の様子を本人に尋ねたことの無いファイは知る由も無いが、知世が主で、仕えている黒鋼の腕はあれだけ確かなのだから、戦の最中―――否、そうならば次元移動はさせまい―――か、主を狙う所謂暗殺者が未だいると言うことなのだろう。腕の立つ黒鋼を旅に出した理由は知世の思い付きでも何でも無く、必然なのだろうけれど、それにしては大胆でもある。 かなりの魔力を持つ目の前の相手は、おそらくファイ自身と同じくゆるりと年を重ねて行く。そんなことを考えながら視線を感じて横を向くと、隣に座っていた黒鋼が眉根を寄せていた。 「何考えてる」 「えー、何でも無いよー」 得意である意味十八番とも言える笑顔で答えても、騙されてくれないことは既に分かっていて、そんなこと気付かなくても良いのにと思いながら、そんなことにも小さな喜びを感じているファイ自身は否めない。そもそも、俺と来るか、といわれる前から、セレスでの出来事にファイが自分なりの終止符を打ってから、もう彼がいないと目で探してしまっていて、傍にいたかった。多分、みっとも無い程そう思っている自覚があるから、黒鋼が相手をしてくれると嬉しい。 でも、今考えていたことばかりは、おいそれと口には出来ず、誤魔化されてー、と思いながらそのまま笑っていると、少女の助け舟が出た。 「で、黒鋼。どう口説いて参りましたの」 「―――何だと?」 ファイ自身も目を見開きそうな台詞に低い声で眉間の皺を濃くする黒鋼を余所に、知世の深い黒曜の双眸がファイへ向けられる。蘇摩、と呼んで紙と筆を持って来させると、折り紙にさらさらと書き付けた。 「もうご存知だとは思いますが、私が知世です。こちらは蘇摩」 くるり、と紙をファイの方へ向ける。三行ほど並んだ文字を指しながらの紹介と、指されなかった最後の一行に首を傾げながら、もう一度自分の名を口にした。 「ファイ・D・フローライトですー。いきなり押し掛けちゃって済みません」 「歓迎致しますわ。どうぞ、いつまでも」 あっさりと出された許可に、ファイは思わず目を見開く。 「良いんですかー?そんな簡単に」 「あの黒鋼が連れて来たんですもの、大丈夫ですわ」 「いえ、連れて来たって言うか、俺が着いて来たって言うかー」 行くべき所も行きたい所も無くて、ただ黒鋼に着いていきたかったけれど、自分から言い出す勇気は無かった。誘ってくれた言葉は切なくもあったけれど、だからこそ、彼の決意とも言うべき台詞に頷いた。黒鋼の国情がどうだとか、そんなことは一切考えずに来て、でも決して平穏な国では無いと分かって、そうであるのに、異国から来たファイを知世は歓迎すると言う。 その笑顔にも眼差しにも偽りは見えなくて、泰然とした姿に、やはり黒鋼の唯一人の主なのだと納得出来、同時に知世の黒鋼への信頼も見て取れた。心が温まる。 「さて黒鋼、長旅は疲れたでしょう。貴方の家はそのままにしてありますから、ひと月程ゆっくりなさい」 「あ、そう言う訳に行くかよ」 「あら、三年分の埃は凄いですわよ」 唐突に切り出しながらにこにこと笑う知世に、声を荒げるでは無いけれど抗議する黒鋼の遣り取りが面白くて、つい笑うと、案の定黒鋼に睨まれた。 「そうじゃねえ」 帰って早々とは言え、ひと月も休めるか、と言う黒鋼に、あらあらと言った仕草で知世がファイと黒鋼を交互に見る。 「第一、言葉も通じない場所にこの方を独りきりにさせるつもりですか」 「俺に教えろってことか」 「黒たん―――えーと、知世姫?」 それは黒鋼と一緒に住め、とそう含んでいる様で、ファイが思わず黒鋼を見ると彼は何一つ驚く様子を見せていない。 最初から、一緒に住んでくれるつもりだったんだ、と紅潮しそうな頬を必死で抑えた。 「蘇摩もちょくちょく遣りますから、この国の言葉を覚えて下さいね」 「―――ありがとうございます」 因みに、これは漢字と申しまして、最後のこれが黒鋼ですわ、と知世は紙を片手に笑う。 優しい人の仕える相手も優しく、どうぞいつまでも、と、その言葉にまさしく偽りは無い。 そしてその言葉よりも、言葉を覚えて、との台詞に、この国に居て良いのだと言って貰えた気持ちがした。 (07/06/25) |