「なぜ出した」

温暖な気候に恵まれたこの地、それも国境近辺ともなれば乾いた風が多くなる。朝晩は冷え込むが日中は王都と変わりない、つまり暖かなはずである。だが、いくつも張られた天幕の内の一つだけが冷えた声で内部の温度を下げた。
威圧を滲ませ、跪く男を見下ろして問う声音は沈黙を許す余裕を見せてはおらず、人払いをして二人だけの空間は外の慌しさとは逆に時が止まっている。地面を見つめていた視線が背はおろか体中に掛かる威圧に抗うようにゆっくりと見下ろしている男へ上り、乾いた口から唸るような声で途切れ途切れ返答が漏れた。

「それが、御為と」
「―――俺は王ではない、だがアルシュタート陛下でも同じ様に申されるだろう」

信には信を以ってあたれ、些かであっても謀りや不正があってはならぬ。

古参の騎士の背で結ばれた襷が僅かに震える。砂埃の侵入を防止する為に、土地柄しっかりと張られた天幕の内に風が入って来ることは無く、騎士自身が身を震わせたことを伝えていた。

例え陛下がどう思われようと、この戦場では許さぬ。
そう斬って捨てる程の、清々しいとも言える程の物言いを残し、全身から威圧を内へ収めると深緑の飾り襷をひらめかせて男の横を通り天幕の入り口へ向かう。ご処分は如何様にとの問い掛けに、付いてこいとフェリドは答えた。










下手な作戦だと思った。
だがそれを覆す権利は無く、つまりただ置かれた状況を打破する為にはひたすら剣を振るうしかなく、さして良い質でもない刃は人の脂と血で曇り骨で毀れている。明らかな圧倒的戦力差に誰かが捨て駒だと呟いたが、命令を下した女王騎士を恨む気持ちはなかった。彼なりに、これが最善だと、ファレナの為だと思ったのだ。アーメス側からしてみれば勝利に逸った義勇兵が機を待たず情報も得ず先走ったくらいにしか思うまい、その油断に正規軍が討って出る。単純だが成功すれば一進一退だった防衛線の風向きも良くなるだろう。捨て駒と言えば確かに捨て駒ではある。
恨む気は無いが素直に死ぬ義理も無く、奮闘善戦した結果アーメス側も大幅に兵を失ったが、向こうは余力のありあまった兵、こちらは控えの無い身。数を頼りにして周囲をアーメス兵に囲まれ、これはまずいとカイルを含め固まった義勇兵の一団は合間を突いて囲いを突破した。地の利を活かし、どうにかアーメス兵を撒いて息を吐く間を見つけたときには、世話になった男が仰向けで倒れている横で膝を着いている自分以外、満足に動けそうな者はいなかった。カイルと共に囲いを突破した兵はおよそ半分に減り、五十名あまりといったところで皆隠れ潜んでいる。近くで聞えていた剣戟の音は止み、アーメス兵は身を潜めているこちらを探っているのか、何にしろ眼前の男に話しかける時間はあった。
アーメス兵達の様子を窺っていた壮年の男がカイルを振り向き、縋るような視線を向けていたがそれに少しだけ待ってくれと合図を返す。血の霧でも出来そうな程に漂うのは鉄の香りに、薙がれて適当に縛った自身の左腕に僅かに顔を顰めながらかさつく頬にふと手を当てれば、ぼろりと赤黒い塊が零れた。

「お前、強かっただろう」

突破の際の先頭をきった様を見ていたのか。大きく割れた左肩の肩当てからは同じ形で肉が割れ、白い骨が見えている。

「そうだね」

笑みを浮かべようとして、顔に張り付いた返り血の所為で頬が上手く動かず、声だけを明るくした。

無形の型と言えば聞えは良いが、要するにカイルは真っ当に剣術の修練など積んだことが無い。それでも負けたことは無かったから天性の物もあったのだろう。ただ、義勇兵に加わってから少しして出会った名も知らぬこの男に引き摺られる様にして基礎だけ叩き込まれた。お前は強いがまだ隙がある、どこでカイルの戦う様を見ていたのか初対面で不躾に発せられた言葉だったが不快には思わなかった。刃を潰した剣などわざわざあるはずも無く、元々使うつもりもなく、いつも己の剣で実戦さながらに勝負をしていた、勝率は十割だったけれど男との打ち合いを止める気にはならず。空いた時間を使い回をこなす内に早くなった抜刀の速度と、自分へ浴びることが少なくなった相手の赤い体液と、少々動き易くなった身体に、教授を感謝した。

「出身は」
「ん、レルカーだけど」

砂埃混じりの風が蒼い空を一時霞ませる。もう長くないだろう男に問われるがまま答えると、温泉に入ったことがあるかと脈絡も無い掠れた声が返ってきた。

「ヤシュナの温泉はいいぞ、一度行ってみろ」

温泉が有名所だと聞いたことはあれども故郷を出た放浪中にも行ったことは無かったが、おそらく彼の出身地なのだろう。名を告げなかったのは誰かに何か伝えてくれと言う事では無く、ただ己の故郷を戦場で知り合った少年に伝えたかったのか。腹の辺りをどす黒く染め続ける身体を回復させようにも宿す紋章は水ではなかった。
カイル、と先程よりも鋭く呼ばれた自分の名に顔を向けて答え再度視線を男へ下ろし、それにしても今頃言わなくてもいいだろうにと小さく溜め息を吐く。

「ありがと、何年か経ったら帰ってみるよ」

カイルが故郷の町に入られなくなった理由など話したことも、そもそもレルカー出身だとも当然言ったことがない。それでも、帰れない身上に気付いていたのか。帰ってみろと言われている様に耳朶を打った科白はどこか寂しい。最期を迎え、目を見開いたままの男の瞼に手を当ててゆっくりと閉じさせる。不意に―――アーメス訛りでも彼等が立てる金属音でもなく―――遠くからこちらへ駆けてくる馬蹄が地面を蹴る音が聞こえ、立ち上がって振り向くと、遠目には黒衣にしか見えぬ服装をした男と、それを負う様に後ろから数騎の馬が見えた。味方だ、とカイルの周囲からも小さく歓声が上る。
同時に、反対側から訛りの入った叫びが鎧の音が近付いてきた。

会した軍勢を鑑みればそれが当然なのだが、実際はアーメス側の軍勢の方が損失は大きかったらしい。相打ちと言えば相打ちで、この命を下した女王騎士にとっては想定外だったのだろうが、結果戦力を見ればファレナ側の勝利を言うことであり。だがそう思っても喜びは湧いて来なかった。
それよりも、膝を着いていた時も離さなかった剣はもちろん血曇のままで、疲弊した身体で近付く彼らにどれだけ右手を振るうことが出来るのかと思う。カイルでさえそんな状態で、周りにいる義勇兵達も同じ程度かそれよりも悪い。騎馬の男達は味方に違いないが、彼等がカイルの元へ来るよりも反対側のアーメス勢がカイルと交戦する方が断然早い。戦場で己以外に期待するなど愚かなことで、もちろん期待などしたことは無かったが、彼等が助力してくれるにしろ間に合わないな、と頭の端で考えた自分を嗤いたくなった。
目の前で、先程から数度カイルの名を呼んだ男も目の色を歓喜から絶望へと塗り替えている。
彼は生きたいのだ、そう思った脳に、つい先程一度行ってみろと告げた男の科白と小さな笑みが浮かぶ。

お前目立つ頭してるな、と薄い金糸を結わえた尻尾を引っ張られたのは一度では無い。無骨な指に制止を告げただけで、それを払ったことが無かったのは、極限とも言える場所での接触に、ヴォリガにも感じたことのない別な温かさを覚えたからか。こんなとこに来る歳じゃないだろうにと言われて、さすがに放っておいてくれと思ったが、言った男の表情に寂寥を感じて口を閉ざした。
息子か娘でもいたのかもしれない。

「カイル」

急に立ち上がった月の色をした髪の少年を、周囲にいた男達が振り仰いだ。

義勇軍として戦場に出て、これ以上無いほどに生きていたいと望んだ。呼応する様に左手の甲が熱くなる。限界に近く使用した紋章が白光が煌いた瞬間目の前が赤く色付き、次に気が付いた時には琥珀色をした眼差しの奥に自分の姿を見付けていた。

「―――あ…」
「お、気付いたか」

こんな場所で、刃を交えているにも関わらず暢気とも言える大らかな声音の男が嬉しそうに笑う。横から閣下、と別の声がしたが、黙っていろと目の前の男は答えた。よくよくその衣装を見てみれば、黒衣の、恐らく先程騎乗していた男の服は遠目で見たことがあるものだ。要所に金色をあしらい、風にひらりと深い緑色をした飾り襷が舞っている。女王騎士、その熟語が脳裏を過ぎった。自然剣を繰り出していた己の力も緩み、それを感じたのか相手も剣を引く。右手に剣を携えたままくるりと周囲に視線を遣ると自軍の兵が二、三人カイルと男の周りを囲んでいる。掴みかかってきそうな彼等の様子に、状況を把握出来ずにいた脳がようやく動き始めた。
なぜかは知らないが、自分は女王騎士へ―――おまけに閣下と呼ばれるのだから騎士長に―――刃を向けていたらしい。今自分は敵と見られているのだろうが、傭兵の身分でファレナ側と証明出来るものなど持っていない。風に乗って漂ってきた吐き気を催すような臭いにそちらを向くと、兵の向こうに黒焦げの物が雑然と転がっている。人だったのだと思い至り、ではなぜ黒焦げなのかと考え、三段論法の最終段階、多分己がしたのだと結論付いた。だが、それが己の身の立証になるかと言えばそうでもない、むしろアーメス兵なら生きてくれていた方がカイルが敵だと証言してくれただろう。要するに、困った。
そう思考を飛ばしていると、不意に頬に触れるものを感じる。人の、女王騎士の手だと気付いた時には既に指は離れていた。

「返り血か、怪我は左腕だけらしいな、上々上々」
「はあ」
「その格好は酷いな、傷の手当も必要だろう、行くぞ」

どよめく兵達など気にも留めず、男はさっさと騎乗していた馬へと歩みを進める。告げられた科白が自分に掛けられたものらしいことは判るが、疑問の方が先に立ち後ろ姿を眺めていると、振り返った男がお前のことだとご丁寧に言い直してくれる。周りの兵を見ると、不承不承ながら異議を唱えはしていない。カイル自身にも異を唱える気持ちも湧かず、抜き身の剣を鞘に収めると男が待つ馬へと歩き出した。
乗れと言われて、足を上げようとして思いの他動かないことに気付いた。男もそれを察したのか、先に自分が騎乗すると、カイルへ手を差し出す。情けない気分も感じながらどうしようも無い。ただその前に、馬上の男を見上げた。

「俺、敵じゃなかったの」
「アーメス兵を倒すところは俺もあいつらも見ている」

おかしなことを言うとばかりに眉が上下する。

「それだけじゃ証拠に乏しい気がするけど」
「俺の審美眼を俺が信じている」

にやりと笑った顔にすべての拘泥が飛んでいく気がした。





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