盤が消防士時代、船内火災で窮地に陥ったらしい時の話です。これ以上無い程に捏造です。
真田さんはほとんど出てきません。ご不快な方には申し訳ありません。
>>天上 天へ昇る灰褐色の煙をものともしない秋の蒼穹、外海へ凪いだ深緑の海原が向く。 「消防士がいる」 「え、ああ、港に着いてますし。消火の他に救助もしているそうですよ」 「いや―――」 救助要請を受けて飛び立ったペリコプターの機内。真田の眼下に、黒煙と白煙を上げて赤い炎を窓から覗かせている貨物船が内を曝け出し、その中に―――爆発でこちらへ向けて開いた大きな穴から煙が途切れた合間―――一瞬だが銀色の防火服と黒髪が見えた。黒煙で直ぐに隠れてしまったが、消防士が用事も無しに一人であの場所にいるはずもなく、防火帽を脱ぐはずも無い。おそらく肩に救助者を担いでいるのだろう、船の周りに吹く風で晴れた煙にもう一度、今度はしっかりと二人の姿が確認出来る。 岸壁で消火活動をしている消防士が装備しているのと同じ、鈍い銀の防火衣は煤に塗れたものか、下の人物からはその色が失われていることを知り、空からは小さく見えるその背が傾ぐのを見た。 「……っ」 貨物船内に取り残されていた乗員は存外な程重たく感じる。彼を背負っていない左側が熱い。 左脇に盤が右肩を入れて肩を貸すことで、ようやく床を踏んでいる救助者は、レスマスクを着けているが、既に気を失い掛けている。もしはっきり覚醒していたとしてもこの煙の中、至近距離とは言えはっきりと盤が顰めた顔を視認するとは出来ないないだろう。それでも、救助者を不安にさせない様、最小限に声を抑えたのは己へのプライドだったかもしれない。救助に何度目かの突入をしたことを悔いはしないが、ここで救助者を連れ帰れなければ、殉職だと思われたくなくても殉職者に名を連ねることになる。無茶をしてとよく言われるが、何度死ぬかと思っても現場へ踏み込むことは躊躇わなかった。 「別の通路探さんと……」 紡いだ言と入れ替わりに、入って来た煙に咳き込む。 自分が入って来た通り道は、引き返す時には瓦礫で崩れ、一人ならともかくも、意識の朦朧とした救助者を抱えては到底乗り越えられなくなっていた。瓦礫の向こう側に消防士達がいないかと声を張り上げてはみたものの、表現するなら梨の礫。来た道を戻れるだろうと疑っていなかった己の失態を悔いる間も無く、打開を求め船内を歩き始めたのはそう前の話ではないが、感覚的にとても長い時間彷徨っている気分がしている。瓦礫前からの道のりを記憶している内に、やはり元の場所まで戻ろうかと考え始めた矢先、煙幕となって行く手を阻んでいた煙が、こちらへ流れて来ていることに気付いた。鮮やかに思い描ける潮の匂いに、望みを見て歩を進める盤の左肩が、酷く痛覚を訴える。 何度出動しても慣れぬとは言え多少は耐性が付いて来た火の熱さを、いつも以上に感じるのは、確かな熱を伴って燻り続けている左肩の所為だった。対炎耐熱に優れを、またかなりの強度を持つ繊維で織られているはずの防火衣が破れ、身を焦がしている。熱いのだか痛いのだか判然としない。 顔面を覆う透明なシールドも、ボンベの面体も外した口内に当然の様に煙が入り込んだ。周辺の大気が濃く感じるこの空間では、程度の軽重は別に酷く熱さを感じる。己への空気はともかく、せめて顔面防護板くらいは装着しなければと急く気持ちがあるものの、肩を貸している救助者と身体に回って来た煙の苦しさで上手く思考と行動がまとまらない。肩の熱さなど忘れてしまうほど呼吸が苦しい。 己が身と救助者を取り巻く熱と煙に、ただでさえ狭い船内の通路が更に狭く圧迫感を持って迫り、足を鈍らせる。船外から呼びかけられているのだろうが、通信は既に強制的に断絶していたものの、おそらく外で憂慮されているのは、この乗員と盤の安否、それも恐らく悪い方向で何より盤自身が一番それを感じていた。空気呼吸器の圧力ゲージの低さが、己だけでもなく救助者も危険なのだと、身に迫る炎よりも正確に切実に盤に告げている。煙で燻された喉の痛みに、咳き込むと少しばかり呼吸が楽になり、同時に頬に熱気だが風を感じた。 それを不思議に思ったのと同時に、不意に目の前から黒い粒子混じりの煙が晴れる。枯れた口の中に風を感じて、視線を廊下から上へずらすと、大人の歩幅五歩分程先の天井に、あるはずの鉄板の代わりに抜けるように巨大な、海とは違う青い空があった。 「―――うわ……完全嫌味ばい」 貨物類の爆発で開いたのか、倉庫らしき部屋は廊下とを仕切る壁ごと大きく、上に向けてだけ穴を開けている。横に開いているならまだしも、飛べるわけでも無いのだから空に出口があっても嬉しく無い、むしろ酷い落胆を覚えされられた。おまけに、そこから空気、要するに新たに酸素が入ってくる訳で呼吸困難は免れても、消火を妨げていて忌々しいことこの上無い。上空でヘリコプターのプロペラだろう旋回音が聞こえた気もするが、ともかく先刻見た風の流れはこの所為だったらしく、せっかく見つけた出口がこれでは使えない事実は現前として存在している。 ここで半分当ても無く、否、他の消防士を信じて、消火が進むのをただ空をまんじりと見ながら待っているか、このまま引き返すなり、別の道を探すべきか。肩の重さが増したのは気持ちの問題だけではなく、明らかに激しい体力の消耗がある。どちらを選んでも引き返しはしないが、どちらを選んでも、身体を奮い起こさねばならないことに変わりは無い。 暗雲を示す様にこの空間を除いて、前も後ろも虎狼ならぬ有害極まりない煙だらけだ。救助者のゲージの針もゼロに近い。新鮮な空気を吸えて少し生き返ったが、それはこの場所にいるからでこの場所を離れれば呼吸は途端に苦しいものになる、そして消火が完遂されねば、この場所にいても助かりはしない。少し火の勢いが落ちている気がするが、今のこの状態で自分が本当に正しい判断を保てているのか、助かりたいが為に勘違いをしているのではないのか、情けなくも十割の自信が持てなかった。僅かにでも気を弱めれば、一気に思考はマイナス面へと加速する。盤一人きりなら、どうにか出来ただろう、一人なら、あの瓦礫をよじ登ってでも帰れるし、船外からの消火も進んでいる。だが、肩に背負った男を放り出せなかった。 「八方塞がりってこういうこ……ごほっ」 痛んだ喉が枯れた声を出す。続けて何度も込み上げて来た咳だけで体力が失われている気がして、事実そうなのだろう。今まで気にならなかった救助者の重さが、急に何十倍の重さにも感じた。ふら付きそうになった足を踏ん張るが、情けなくもぐらりと崩れて膝を付き、次いで耳元で僅かに呻く声が聞こえる。首を捻じって救助者の様子を確認すると、薄くだが目が開いていたが、やはりかなり辛そうに見えた。 「しっかりするばい、辛かったらもっと体重掛けていいと」 励ましながらこの状況で、ようやく、ああ、帰れないかもしれないと、それでも仮定で以って思う。恐怖や絶望を覚えないのは、自分一人ではなく背に同じ状況の人間が共にいて、彼を助けなければと言う使命感―――と言っていいものか判らない―――が未だ勝っているからで、ただそれもいつまで持つものか確証は無い。 ―――助けて、とかねえ。 ふと頭に疑問形で浮かんだそれは、だが、人を救助する立場として現場に踏み込んだ以上考えたり望んだりしてはならないのだろう、少なくとも盤はそう思っている。己の身が置かれている現実を見ていない思考だと嘲笑されようが構わない。人を救助する立場にあって、誰かに助けを求めるなど、そんなみっとも無い、本末転倒なことなど許せないと、高いと自覚しているプライドでそう考えている。先々月辺りの住宅火災でも、危険だと感じたことはあったけれど、余人に助けを求めはしなかった。要救助者が助けを求め、彼等に助けを求められているのは、石井盤と名が付属する消防士であって、彼等と同じ要救助者になった石井盤一個人ではない。救助を待っている側には助けてくれればどちらでも構わないのだろうけれど、盤にしてみれば大きな違いだ。 助からないかもしれない今でも、それは変わらない。 「――――――助けてなん、思うたりせんけども―――」 けれども、どうしたらいいのか判らない。どうしようも無いと既に頭の奥では認めてしまっているのに、気持ちが手立ての無さを認めたがらないだけだろう。生命の危機に瀕しているはずなのに、捨てられぬ矜持は何の役にも立たない。いや、捨てたところで誰かが窮地を救ってくれる訳では無いのだから、捨てる必要が無いのかもしれない。 ただそれは、背に負う彼には無関係な話で。 己の耳にしか届かぬ小さな呟きを口にして、再度見遣った救助者の顔色は黒く煤で汚れている。 己が身を守れてこそ、人を助くることが出来ようと、その事実に背を向けてでも、火災の所為だけではなく温かい、この背に掛かる重みは助けたかった。 これも結局は、知らず他人に助けを求めることになるのかと黒煙で覆われた空を仰ぐ。嫌になるほど空の蒼が眩しかった。 何でもいい、助けるのは、自分で無くていいから助けたい。自分の命より、盤しか頼る者のいない彼を守りたかった。全身の力など当に抜けているはずなのに、盤の首に回る腕は力を失わず、左手を掴む手は痛い程に指を立てている。その手を知らず、強く握り返そうとした盤の耳に、酷く煩い機械音が響いた。 風が吹いて、蒼い色が見え黒い黒点が見え、何気なく見たそれはヘリコプターらしい。そこから何かが降りて来ているなと認識したほんの数瞬後、軽い音を立てて上下オレンジを纏った男が盤の十数歩先に立っていた。 「海上保安庁、特殊救難隊です。援護も兼ねて救助に来ているのですが」 一瞬、間が抜けた事に幻かと思う。 だが、足音を伴ってよく通る声でゴーグルを上げて近付いてくる彼に、現実なのだと判った。尤もそんな盤の戸惑いなど知る訳もなく、失礼かもしれませんが大丈夫ですか、と男は尋ねて来る。数歩前まで来た彼に、自然その顔に合わせた盤の視線も上がり、問われた科白に反射的に頷いた。彼を、と言われて伸ばされた手に、半ば覆い被さられる形で担いでいた男の意識を再度確認する。 僅かに聞える呼吸音と、上下する胸元が彼が生きている証左だった。彼は生きている、大丈夫だ。そしてここに助けが来ている。 「薄っすらですけど意識はあるばい。けど、もう空気無くなろーもん」 ゴーグルの下から、盤と同じ色の、だが一目で引き付けられる眼が現れる。 「預からせて頂く」 「―――え、……あ―――」 助けてくれる。即座に伸ばされた手は、彼を受け取ってくれようとしている。 言われた科白が一瞬理解出来なかったのは、それが自分が望んだ、都合のいい科白だったからか。眼を見開いた盤に、目の前の―――目ばかり見ていたからだろう、気付かなかったのが不思議なほど―――端正な顔立ちの男が僅かに首を傾いだ。 「何か?」 「や―――頼んで、よかですか」 己の足を叱咤して立たせ、救助者に特に外傷が無い事等必要なことを伝えながら、背の重みを空からの援助者に託す。首肯して手早く、降りて来たホイストケーブルにハーネスとサバイバースリングで救助者と自分を繋ぐ彼に、あの速さがリペリングで降下して来たものだと知った。 いつの間にか傍観者的にそれを見ていた盤に、片膝を付いた腿に、寝かせた救助者の頭を乗せ、けぶる上空と合図を取っていた彼がこちらへ顔を向ける。そう言えば、降下時はともかくホバリングするヘリコプターに戻る際に、視界の悪い中不安にならないのだろうかと思う。風は常に一定方向へ吹いてくれている訳では無く、仮にこの特殊救難隊員が大丈夫と思っても、ホイストを上で動かす側は昇降相手が見えねば、吊り上げられる側は上と連携を取りながらでなければ危険を伴う。技術的にどれだけ安全だと確証が持てたとしても、心情的にそうはいかない。もし、危険を欠片も感じないと言うならば、それはそこに絶対的な信頼があると言うことだ。 普段の盤を知る者が見ていれば、おそらく不思議そうな表情で以って、男の顔を見ていると、片方だけが二重の特徴的な瞼をしていることに気が付いた。 「ここにいて貰えますか」 不安を欠片も見せず、逆に安心だけを与えてくれる声を不思議に思う。そんなことを考えていたことも含め掛けられた言葉の意味が一瞬自分で判らなくて、急いで理解しようと動かした脳でもしかしてと思いながら浮かんだ理由を問い返した。 「……もしかしてオイも救助してくれるとですか」 心底意外そうな盤の声音に、目の前の男は周囲を改めて確認すると極めて冷静な事務的口調で答える。 「他に方法が無い様に思える、気分を悪くされたなら申し訳ないが」 「あー、要救助者の仲間入りとかね」 「失礼だが、そう見える」 「―――ええよ、そちらさんからその人奪って走って岸壁に降りれたら、心置きなく気分悪く出来るよーもんけど」 最初の、丁寧語が抜けた科白が、多分いつもの彼なのだろう。馬鹿にした言い方などではない、ただ単調に、一人ででもここからは生還出来ないだろうと暗に、だが遠慮なく告げられて、プライドを傷つけられたと感じても嫌味に感じてもおかしくない口調が、返って心地良かった。 「けど、いらんですよ。一人なら帰れんね」 現金なもので、自分独りならと思えば極限までに高まった救助へのプライドが持ち上る。救助者を他人に救助されただけなら良い、だけれども自分まで一緒に救助されたのでは他の消防士に合わせる顔が無い。 本当に切羽詰っているなら大人しく頷いたのだけれども、要救助者を手渡して降りた荷の安堵で状況を再度確認し直すと、場所の所為だけではなく呼吸が楽になり、段々と鎮火を感じられる。根拠の無い思い込みとも言える感覚が、盤に首を振らせた。 「しかし―――」 拒絶に小さく眉根を寄せた男の視線は、盤の左肩を見ている、それを知っていて尚、声を遮った。 「帰れる」 乾いた声でもう一度開いた口は、相手の信用を得られるものなのか怪しいところで、それでも盤にそれ以上の声は出せない。言い切って、自分では不敵な笑みを浮かべたつもりであるけれど、ここで待っていろと言われたらどう拒否しようか、そんなことまで思い始めた盤に、少し考える素振りを見せた男は、少し口元を緩めて頷いた。 「判った」 自分を見つめてくる消防士をどう思ったのか、傍目にぼろぼろだろう盤のどこに確証を得たのか、盤に判ろうはずも無い。ただ、こちらの意見を受け入れてくれたことに笑みを刷く。 「その人、お願いしますたい。えーと……」 名前を呼ぼうとして、その名を知らないことに初めて気が付いた。オレンジ色の隊服には縫ってあるのだろうけれども、ジャケットに隠れて見えはしない。口篭った盤の意図する所に気が付いたのか、彼が名を口にし、同時に再度空を仰ぐ。風がいい方向へ吹きどうやら煙が晴れてくれているようだ。空を見上げる男の瞳は決して、欠片も不安を浮かべない。揺らぐことなく、まるで機械の様にも思える正確さでこの場に降り立ち、今度は視界不良の中空へと昇って行こうとしている。 降下する前に、煙で視界を失う可能性を考えていないはずは無いと考えていたけれど、そうではなく。例え一時視界を煙に奪われようとも大丈夫だと言う確信だけを持って降下してきたのだ。空で待機する隊員達への信頼と、自分への自信、盤とは違うのだと、不意にそう思う。消防を卑下する訳ではないけれど、何かに気持ちが揺れた。 「こっちのこと気にせんで、ともかくその人助けて欲しいですとね」 拘泥無く、彼を助けてくれと言えたのは、初対面なのに他人へ信頼を寄せさせる雰囲気があったからか、それとも磐石にも思える強い意志を宿した眼差しに惹かれたからなのか。 「了解した」 言うなり軽い床を蹴る音と共に、二人分の足が宙へ浮く。激しくは無い緩い風が煙を分散させ、吊り上げられて行く姿を隠すことは無い。ゆるりと二人を内に抱えようとする空が、周囲を灰色に囲まれた盤から酷く眩しく見えた。蒼い空に上がって行く姿は僅かだが小さくなって行くはずなのに、盤が小さくなっている様な気がする。かっこ良かねえ、状況に似つかわしくない感想に思いの外和らいでいる自分を知った。判った、と了承したからか、了解したと返答をした後、一度も盤を見なかった男が空へ還って行く姿に、ヘリコプターへ到着する前に視線を外す。元来た道を戻る前に少しでも身軽になりたかったが、まだ僅かに残量のある空気呼吸器を外すわけにはいかない。 「特殊救難の真田さん、やね」 ただ、口元へ当てる前にもう一度潮混じりの空気を肺へ流し込む。そう言えば肩が焼けていたことを思い出し、首を回して目に入った、真っ赤だった水泡が白くなり、既に痛みを覚えない状態になった左肩に顔を顰めた。 戦場の恋かもしれません。突っ込み所満載でした。 (06/06/07) |