>>覆う手(真メグ)

「戻らん」

朝起きて目の前に現れた白濁の世界に、何度も目を擦ったり欠伸をして涙を流して見たりするが、一向に視界は透明度を上げてくれない。
幸いなことが何かと言えば、今日が休日だと言うことと、ルームメイトは既に誰もいないことくらいだった。慌てても騒いでもどうしようもないだろうし、その内直るかもしれない、特に今日は予定も入れていない。取り合えず顔でも洗おうと、盤はベッドから冬の冷えた床へ足を下ろした。まだ秋口だと言うのに舞鶴は、佐賀より余程寒い。

やっぱり駄目だと思ったのは、最初の起床から約四時間後。いつもより時間を掛けて洗面台から離れたが、手探りで部屋の外に出る気にもならない。気の所為か少し良くなった様に思い、またしばらく寝ていれば直るかもしれないと再度ベッドに横になったが、そうそう都合良くもなく、再度目を覚まして起床時と同じ程に濁って見える室内に溜め息を吐いた。学校付属の診療所へ行っても外の病院へ回されるだろうし、それならば最初から市内の眼科へ行った方がいい。
寝室から出たくはなかったが保険証は自習室にあるし、私服もそっちだ。幸いと言うべきか、階段を壁に手を当てて降りる様を誰に見られることもなったが、どこに入れたかおぼろげな保険証を探すのに苦労した。白い世界では他の物との判別が付き辛い。黄色い表紙の分厚い電話帳を開いてそこに羅列されている文字を読み取ることなど不可能に違いなく、何度か外出時に見かけた総合病院へ直接行くことにした。
壁に掛けられている時計を、眉間に思い切り皺を寄せて睨みつける様にして―――それでもどんなに睨んでも視界は良好にはならなかったが―――何となく時間を判じる。診察時間外でも縋り込もうかと迷惑極まりないことを考えた。

「炎症が酷いですね」

紹介状も予約も無く訪れた盤に、多分困った様な顔をしていた受付嬢も、少し大袈裟に、目の前が白くて見えないのだと告げた盤に同情したのか、手術中だという眼科医に連絡を入れてくれた。
手術後、疲れているだろうに嫌な顔を見せずに盤を診察した医師に、更によく診る為にと目薬を打たれる内次第に盤の目の前がいつも通りの世界を取り戻し始める。医師の後ろにある、ブラインドで遮断された外から光が漏れていた。
それを告げると、医師は特有の笑みを浮かべ、人の眼の部分だけをクローズアップしたボードで判り易い説明をしてくれさえする。視界が白かったのはタンパク質等浮遊物の所為であり、元に戻ったのは目薬の効果ではなく、時間が経ちその浮遊物が眼底に沈殿した為らしい。黒い瞳孔を囲む茶色い虹彩の下、三日月状に溜まっている白い物がそれだと言われて、コップの底に溶解度の為に溶け切れなかった塩が溜まっている場面が思い浮かんだ。

「ですから申し上げ難いのですが」

医師の顔が、確か女性だったはずなのにいつの間にか男性へ変わっている。見えなくなりますとのあっさりした科白を、驚くでもなく受け入れて、むしろその口振りに、ああ治らないのだ、仕事を辞めなければ、と、淡々として思った。

そう、なぜ驚かないのだろうか。どこかで医師と相対する盤とは全く別の盤が、諾々とする展開に警鐘を鳴らす。
変だ、何かおかしい。自分は―――海上保安学校の学生として、国家公務員の立場ではあるけれど―――仕事などまだしていなかったはずだ。なぜ仕事を辞めなければなどと思うのか。それに、視界は既に白くも無いのに、治らないのはなぜなのだろうかとも思わない、接続語もおかしいのに、何を疑問に思うことも無く、絶望ともいえる言を受け入れている。
何かが違う、あの時こんな断定は決してされなかったと頭のどこかが発しているのに、医師の話を聞いている盤は素直に納得していた。未来を絶たれた感覚に、ただどうしようかとそればかりが胸中に溢れている中、妙な明るさをしていた診察室が一時で真っ黒になる。

あの時、と思った自身に浮遊感を覚え、ブラインドで閉ざされていた窓の外に、見えるはずの無い白い雪が見えた。










少し冷たい空気が頬にただ当たる。瞼を開けても真っ暗な視界はそのままで、身体は温かい。

「――――――い」

暗い。

遮るもののない普通の視界、けれどもよく知るようになった胸板はおぼろげにしか見えない。温かな場所で横になっているらしい中、肩の部分だけ一段と温度を高く感じた。急速に覚醒してぱちりと開いた瞳で、盤は数度瞬きをする。今は夜でまだ日も昇っていないのだと、ここはベッドの中で今は今で、さっきまでのあれは夢だったのだと判ったことに心底安堵して、確かめる様に身を起こすと肩の辺りから温もりが滑った。
どうやら肩辺りを抱かれていたのか、今の動きで目を覚ましたのではと、暗闇に慣れ始めた瞳で真田の顔を見れば、きちんと瞼は閉じられている。

「……喉渇く」

タイマーをセットした部屋の暖房は既に切れていて、温い室温に何も身に付けていない身体に鳥肌が立った。夢の所為では無かったとは言い切れないが、感じたのは確かに気温の低さによる寒気だ、もしかしたらこれから雪でも降るのかもしれない。脱ぎ捨てた衣類は床のどこにあるのだろうかと思うが、窓から入ってくる夜でも明るい外の灯り以外光源の無い中、眼鏡は外しているし灯りをつけて隣の男を起こしても悪い。誰に見られる訳でも無いからとさっさと折り合いを付けて、盤はベッドの直ぐ脇に置いていた―――正確には落としていた、元は髪を拭いていた―――バスタオルを腰に巻いた。

「う―――やっぱり寒か」

ぺたり、と廊下を歩いた先、キッチンの蛇口を捻って零れ出した水の冷たさはグラスを伝って指先に伝わる。熱い茶を淹れ様と思えば淹れられるがそこまでする気も起きない上に、温まりたければベッドへ戻ればいいだけの話である。何より、冷たさが現実を知らしめてくれていた。一段と冷えた空気はやはり雪の前触れなのだろう。

夢は夢で、生きているのは水を飲んで喉を潤している今だった。鮮明に夢を覚えていることなど高校を過ぎた辺りから無くなったし、嫌な夢でもすぐに忘れてしまうが、やはり現実はこちらだと言うことに安堵する。ただ、直ぐに忘れてしまうのにそれまでの僅かな間が嫌なのだ。ましてそれが未だ現実となる可能性を、パーセンテージ未定で朧気なまま秘めていること思うと、面倒でもあり舌打ちしたくなる。

半分実体験の夢だった。リアルさが怖いほどに。

普段は頭の端を掠めもせず、可能性を上げられた病名も朧だった。盤の中で、忘却の彼方と言って等しい。患ったことを本当に何とも思っていないし、あるのか無いのかすら判らぬ可能性だけを気にする神経はしていない。夢見が悪いだけ、ただそれだけだ。

寝室へ戻ろうとグラスを注ぎ、洗い物の入った籠へ逆さに突っ込んで後ろを向いた盤の前に、キッチン入り口の横に立つ影が立った。

「うっわ、―――驚かせんといて」
「寒がりなわりには寒い格好をするんだな」

暗い中、真田自身は上半身を室内用に外出着から格下げされたセーターで包んでいる、下半身は暗くて黒くて見えない。長身の後ろから灯りが漏れ出てこないところを考えると夜目が利くのか、それにしても絶妙のタイミングと照らし合わせると起こしてしまっていたらしい。謝ると、気にするなと冷たく聞える程素っ気無く返された。慣れていなければ怒っている様にも聞える。
その真田はともかく、確かに盤は寒かった。半ば寒さを求めた様なものではあるが寒いものは寒い。寝室へ戻ろうと真田の立っている方へ近付くと、関心気味な声が聞えた。

「眼鏡は無くてもいいんだな」

夢を考えれば何とも言えぬ奇遇と言うべきなのか。

「―――あ、うん、一応規定矯正でもゼロコンマ3やしね、オイは6以上あるけど。以前はコ
ンタクトやったし」
「どうかしたのか」
「以前短い間やったけど目薬よく点しとったばい、その度にコンタクト外すの面倒やもん」

それで、いい機会だと止めたのだ。もちろん、第二目標の潜水士となった暁、潜水中に突然外れたら―――外れるだけならともかく、使用していたハードレンズは、ずれたりすると非常に痛くて救助や探索どころではなくなるだろうし―――困るから、第一段階である海上保安学校卒業を向かえたら眼鏡に変えようと思っていたので、それが早まっただけでもある。

「一日三回くらいのものじゃないのか」

何にしろ、裸眼視力1コンマ8と言う成人男性にしては珍しい程の視力を有する真田には無縁の話だろう。

「最高で一日十五回、連続点眼は出来んばい」
「そうなのか」

連続点眼の間隔などその必要なければ知らなくて当然で、実際盤もドライアイ対策の為に市販の目薬を使用している時は全く知らなかった。

「五分は空けんと、先のが流れるんて」

薬局で処方箋と引き換えに貰ったのは小さなプラスチック容器が三つ。三種の目薬を起きている時間内に、二種を六回、一種を三回。回数は治療している間に減っていったし、その治療期間も四ヶ月と短いものだったが、お蔭様でと言うべきか、目薬の点眼が上手くなった。

「確かに面倒だな」

キッチンから真田の横を通り抜ける盤を、視線が追う。気配ではなく、間違いなく盤の姿を追っている。それが可能なのは、その瞳が普通の茶色だろうが例えば蒼だろうが、形が片二重だろうが一重だろうが、見えるからだ。
何が知りたい訳でもなく何を期待した訳でも無い、何と応えられても構わず、単に、何となく訊いてみたくなった。

「真田さん」

相変わらず盤を見たままの瞳を、片手を伸ばして、その両眼を大雑把に覆う。元々暗いままの室内なのだから、今は何も見えないに等しいだろう。不意に伸びて来た冷たい手を避けるでも止めるでも、外すでもなくされるがままになっている真田に問うた。

「もし近い将来失明する言われたらどうする」

手の平に、瞬きをする睫が当たる。上下しているから、真田が瞼を閉じた訳では無い。

「今直ぐにでは無いのか」
「そ、何年後か、段々落ちていった後ばい」

判っていて尚どうすることも出来ぬ恐怖。案外最初の内は楽観出来るかもしれない。その内、実際に落ち始める視力に悲観する。同じ様な思考を失明ではなく生命の危機として、かつての消防士時代に感じたこともあったが、感覚的にはともかく実際の時間はこちらの方が余程長い。

「判らない」
「―――そ……オイも判らん」
「ただ、どうやっても生活していかなければならないから、落ち着いたら術を考えられると信じたい」

その人らしい、と言う表現は盤は好まない。例えば、ある行動に対して盤らしいとの評を受けたとしても、鼻で笑って来た。盤の何を知る訳でもないのに、盤らしいとは一体何を指すのか。子どもの理屈だと言われても、未だにその考えを変えられない。それなのに、真田らしいと今感じている。
期待していなかったわりにどこか落胆している自分は、やはり期待していたのか。真田が告げた望みは―――盤がそう思えるかは別として―――誰かしら願うものだろう。

「そうやね」

近眼ではあったけれど、眼病になったのは生まれて初めてのことだった。罹ったのは、盤が消防士を辞め保安学校へ入学し、短い学校生活を半分過ぎた頃。夢で見た通りの部屋で夢で再現された通りに目の前が白い膜で覆われていた。

あれから数年。白い膜を起こさせた炎症再発は兆しも無い。もう大丈夫なのだろうと思っている。結局病名は最後まで明確にならず、一応急性の炎症と言うことになった気がする。
種々考えられる病名の判断をする為に何度か採血をして、遺伝性のものかどうかも検査されたが、元々その結果も半割は確実でないらしい。陽性ならば言うまでもないが、仮に陰性だったとしても遺伝の可能性は否定できない。眼病は、他の身体の症状が出たり出なかったり、非常に特定し難いものなのだと再三言われ、眼病を含めた諸々の病状になど欠片も詳しく無い盤はただ頷くしかなかった。また白く濁ることがあればすぐに検診を受けることなど、言われずとも承知していたが、定期健診は卒業を間近に控えた学校の忙しさに感けて行かなくなった。目薬は一種類、回数が少なかった物が残っていたが退寮する時に捨てている。

「真田さん、寝んでもええとね。明日当直やろ」

未だ覆ったままの目が瞬きを延々と続ける反応は、目で物体を認識出来る限り終生変わらない。本当は、誰もがいつ何時、何が原因でいつ見えなくなってもおかしくは無いのに、己にだけは起こらぬと確然とした根拠も持たずに思っている。だから、たまに唐突に目を患うと、それが大したことでなくても恐ろしくなる。

真田の返事を待つ訳でも無く、さっさと手を外して廊下を歩もうとした腕を逆に強く引かれた。怪訝に思い振り向こうとする行為を遮る様に、先程とは逆に今度は真田が盤の背後から瞳を、暗闇で窓から入る明かりに頼った僅かな視界を奪う。

「済まない、嘘を吐いた」

ぐい、と肩に腕を回され引き寄せられた。

「真田さん―――?」

背後から抱きすくめられ、右の耳朶に掛かる息よりも素肌にあたる真田の手の方が冷える身体には温かい。正反対に、氷の様な冷血さに覆われた真田の声音の中身は、普段の真田とは無縁と思われる感情が詰まっていた。知らず、肩を引き寄せている手に、盤は自分の手を重ねる。

「恨んで妬む、お前にすら」

見えるからこそ出来ること。見えないから知れるだろうこと。後者を知る確率は低い、はずだ。

「どうして自分がそうなるのか、理不尽だと、それもあるが」
「―――多分、それが普通かもやね」
「俺からはお前が見えなくなるのに、他の人間にはお前が見え、お前には俺以外も見える。状況を自分の物として受け入れられる日が来るとするなら、それまでお前を憎むかもしれない」

先天的な盲目だけでなく、中途失明者も現実決して少なくはない、むしろ光を失った彼等の八割近くは中途失明者だ。彼等の話を盤は一度、高校時代に聴いたことがある。どうして彼等がにこやかな笑みを浮かべ話が出来るのか今も判らない。自棄にもなったと経験を語ったある壮年の男性が、それでも受け入れなければ生きて行けなかったと言った声はとても静かなものだったが力強く鼓膜に響いた。彼は講演当時、元々務めていた会社に、中途失明後一年以上掛けて復帰した直後だったらしい。
自分には無理だと、盤は今も思っている。こうして、見える立場で見えなくなった時のことを軽々しく口にすることさえ、彼等に対する侮辱にも思う。それでも、見た夢が、思い起こされた僅かにでも感じた可能性が怖かった。

真田がどう考えているのかは判らない。ただ、盤を憎むのは彼にとって盤が近しいからだろうか。人を憎むという感情を―――それも何か我慢できぬことをされて抱くものではなく、己の持たぬものを他人が持っているからと言う至極自己中心的な、とても子ども染みた理由で―――真田が持っていないなどと誰が断じた訳でもないのに、普段の言動があるから盤でも意外に思う。

「憎まれるの慣れとう、気にせんでよかよ」
「そうか」
「あと……オイも嘘吐いたけん」
「そうか」
「―――軽蔑されとうなかもん、真田さんには二度と会わんばい」

両目の見える盤の、ただの予測でしかないが、多分、醜く、哀れまれる程当り散らす。この現実の中で自分だけに起きたことではないのに、我慢出来ない。両眼を覆う手の所為で何も見えはしないのに、その先にある室内を睨んだ。
耳元で低く聞えた真田の何度目かになる、そうか、と頷く科白に安堵と僅かな寂しさを感じる。真田に見える訳でもないのに笑みを作ろうとして続けられた科白に、真田の手へ重ねていた、一向に温まらぬ盤自身の指に力が入った。

「なら、もう大丈夫だと思えたら連絡してくれ」

抱かれているから肩は震えなかったはずで、動揺した気持ちを力を込めた手以上に悟られぬ様、努めて平静を装う。

「しつこいと嫌われようよ」
「そう言う科白は手の力を緩めてからにしろ」

待っている、と同義の言葉をあっさりと口にした男は、気付かないでくれてよかったのに、盤が重ねるだけではなく握った自身の手を指摘する。
この男がレスキューロボだなどと、誰言い出したものなのだろうか。きちんと人間の泥水の様な濁りも、誰かを包む温かさも持っている。否、言い出しただろう本人も仕事振りだけと見てそう評したのだろう。そうでなければ、あの送別会であれだけの人間が集まるはずも無く五十嵐と微妙な間柄になることもない。
ただ、少しだけ頭の回線が違うだけだ。

「真田さん、面白い人やね」

すい、と目の前から手の平が外される。

「真面目に話しているつもりだが」
「判っとうよ、気悪くせんといて」

後ろに寄り掛かると真田も壁に身体を預けたのか身体能力の故かふら付くこともない。そのまま更に体重を掛けると、気を悪くした分なのか、一拍置いて抱きすくめられた。火傷の痕と、それ以外の皮膚がセーターに当たる感触の違いがくすぐったい。

「真田さん」
「何だ」
「今の、忘れてくれてよかよ」

でも、感謝しとう。それは口には上らせずに中に留めた。










見えることは偶然かもしれないと薄っすら思っているぽい様な。

(06/05/25)



back