>>隣を行くひと(valentine eveの続き:本より再掲)

「全く、暖房を付けているとは言っても風邪を引くぞ」

どうせなら明日渡してやったらどうですか、との嶋本の勧めに、一応そのつもりだったとは言わなかったものの頷いたのは、仕事帰りにデパートに寄った昨日。その昨晩から今朝に掛けて準待機だった為に、今日は心持ち眠そうな盤の訓練姿を、基地内で遠目に見掛けたが、確か定時で、上へ提出する書類を仕上げていた真田よりは早く、帰宅したはずである。

おそらく真田の家へ直接来ることも無く、真っ直ぐどこにも寄らず帰宅しているだろうと考え、少し遅れて仕事を終え、基地を後にした真田は、二駅離れた盤のマンションを訪れた。混雑した車内で、神経質だと笑いつつも、それとなく庇っていた鞄の中には、紙袋を除けて、包装紙で包まれているチョコレートが入っている。

だが、帰っているだろうと予測した真田に反して、インターフォンを押しても、一向に人が応対する気配が無い。もしかして、と思いながらコートの内側を探って目的の物を探り当てた。コートの中にあった為に、温められている銀色の金属を、一度掌で確認する。ただ、部屋の鍵穴へ差し込もうとして毎回のごとく逡巡した。

いくら合鍵を貰ったからとは言え、真田の性分として、勝手に入るのは気が引ける。気にしなくても良いと言われ続けても、いつも同じ、鍵を鍵穴に差し込む手前で躊躇ってしまう気持ちは何年経っても抜けない。結局開けてしまうのだから、無意味と言えば無意味かもしれない、と思いながら、ゆっくり玄関を開ける。冬の夕方、つまり外は暗いと言うのに室内も無灯で、玄関から一直線の位置にある窓から街の灯りが入り込んでいた。
邪魔するぞ、と無音の室内へ呼び掛け、玄関口横のスイッチを入れて、短い廊下を進む。予想していた通り、フローリングに敷かれた電気カーペットの上に、黒い塊が転がっていた。

「盤、寝るならベッドまで行け」

短い廊下を進みながら、暗がりで凝らした視線の先に、黒縁の眼鏡を見つけて、ローテーブルの上へ避難させる。温かなカーペットに膝を着き、身体を縮めて寝ている、その顔に掛かる前髪を指で除けると、伏せていた瞼がぴくりと動く。肩を揺すると、眠りは浅かったのだろう、薄っすら瞳が覗き、ゆっくりと数度瞬きをした。

「さ、なださん」
「ベッドまで行け。それに、夕飯は食べたのか」
「――――――あ―いや。……まだ―――」

目を擦りながら、起き上がろうとする盤の腕を、軽く引いて手伝う。寝室へ向かうのかと思ったが、数度頭を振る仕草を見ると、起きるつもりなのか。電気を付けるぞ、と真田が言えば、寝惚けた声で肯定が齎された。

「何か作るのか」

目が眩まない様に、キッチン側のスイッチを入れたが、明かりに照らされたシンク脇にも、電子レンジの中にも、何か食べ物がある様には見えない。大きめの声で、冷蔵庫を開けると断りを入れ、鞄の中の箱をそのまま入れてからリビングへ顔を向けると、相変わらずカーペットに座ったまま、こくりと船を漕ぎそうになる自分自身と、目を擦ることで対抗している盤がいた。

「あ―……真田さんは」
「まだだが―――食べに出るか」
「ん、や、そろそろご飯炊けようもん、作る」
「そうか―――おかえり」
「あ、ただいま――――――いらっしゃい?」

小首を傾げ、ふらつきながらようやく立ち上がった盤が、笑みを浮かべる。そのまま今度はソファに座ってしまった様子を見て、真田は小さく溜め息を吐いた。今から夕飯を作るとは言っているものの、眠気と戦っている状態では、危なっかしくて仕方が無い。ベッドまで行くつもりもなく、確かに空きっ腹で寝るのは余り良くないが、短時間、もう少しくらい寝ていた方が良いだろう。
ソファの前に軽く座っていた盤に近付くと、半分閉じかけた瞼に小さく笑いながら、身体を緩やかに横へ倒す。薄っすら眼を開いた盤へ、俺が作るからもう少し寝ていろと、真田が、自分の着ていたコートをブランケット代わりに掛けると、茶色の瞳が大人しく瞼を閉じた。





「真田さん、レスキューなかったら、ほんまこつ器用貧乏やったかもね、平均より二段階ずつ上くらいの」
「それは褒め言葉なんだろうか」
「一応」

鼻孔を擽る匂いに釣られたのか、炊事の音に覚醒を促されていたのか、簡単な夕飯をガラス板のテーブルへ並べ始めると、真田が起こすより先に、盤はむくりと起き上がった。冷蔵庫にあった使いかけの野菜と、賞味期限間近の、きのこと豆腐を混ぜて作った炒め物は、見た目はともかく味はお気に召したらしい。大きめの茶碗に盛った白飯を、ざくざくと口内へ消去している盤は素顔のままである。
白飯と炒め物、残った野菜を包んだオムレツを、箸と共に行き来していた視線が一瞬止まり、真田の方を向いた。

「そういえば、何や用あったんと違うんね」

まるで用事が無ければ来ないくせにと、批難にも聞える科白であるけれども、盤に他意がある訳でもなく、又あったとしても真田にそれを否定出来るだけの行いを過去に持っていない。
確かに、用事があるか、一緒にこのマンションへ帰ってくるか、呼ばれるか。その三通りでしか―――つまり、会いたいから寄ると言うパターンがない―――真田は盤の自宅を訪れたことが無い。因みに合鍵を持っているのは、以前、少し遅くなるから先に自宅へ行っていてくれと盤から寄越された物が、そのまま真田の所有物となったのである。
一時期、その鍵を、その形が掌に食い込む程握り締めていたことは忘れられない。
所有物となった後からは、結構な頻度で呼ばれる様になったので、馴染みが無い訳ではないが、それでも盤が真田の家へふらりと、もしくは行くと断りを入れて訪れる回数に比べれば、少ないものだ。
自然、今日の真田の様に、何らかの目的を持って訪れることが目立ってくる。

「ああ、渡す物があったんだ」
「基地に忘れ物でも、しとうたっけ」
「食べ終わってからでいいだろう」
「書類やったら取りに行ったばい」
「いや、俺個人の用事だから、それは筋が違う」

用事があるのは真田自身であるのだから、盤を呼ぶのはおかしいだろうと、そう言えば、心当たりを頭に巡らせているらしく、首を傾けている。あっさり、全然思いつかんばい、と言われ、まあ確かにそうだろうと、真田自身ですら思った。
昨日会った、嶋本の相手であるところの大羽は、日本的バレンタインを願っていたが、真田自身も盤も、互いにチョコレートを強請ったことは無い。行事感覚がまったく無いというわけでは無いが、真田個人の意見として、一応自分は男であるわけで、盤も同性で、無関係な行事だと思っている。
否、思っていたのだ、昨日までは確かに。

偶然デパートで出会った嶋本が、古本市の隣の特設会場前で、酷く意気込みを入れていたのか、睨みつける様に女性ばかりの会場を眺めていた。どうしてと思う間も無く、大羽にか、と疑問も挟まず直感したのは、嶋本と大羽の関係を知っているからと言うよりも、むしろ、睨みつける中でも嶋本の表情が嬉しそうだったからだ。申し訳無いことに、少し揶揄したくなっていた。

大切な人間に渡すのだろう、嶋本や大羽にとって同性であることは関係無いのだ。大羽に頼まれたのだと照れくさそうに事情を話す姿に、優しい物を感じた。
バレンタインの日、女性から男性へチョコレートを贈るのは日本のみの習慣で、英国などでは男性が女性に花を贈ったり、本を贈ったりする日だったりする。又、国によってもそれぞれで、一日くじで引いた相手と、お試し的にデートをするだったりもする。そう考えれば本当にバレンタインの習慣など千差万別だが、ただ、そこには、相手を思う気持ち以外に何も存在しない。国によって様々であるならば、いっそ、尊敬、或いは感謝を伝える日、そう解釈した所で構わないだろう。

それならば、渡してみようか。ガラスケースに並んでいるチョコレートと、熱心に選んでいる嶋本を見てそう思った。単純と言えば至極単純で極端とも言える。感謝したいことは数え切れぬ程にある。あれだけの事故に遭いながら、こうしていられることも、その一つに違いない。

「甘い物は大丈夫だったな」
「何ね今頃、デザートでも作ってくれたん」
「俺が作った訳では無い、デパートで買ってきた」

驚くだろうか。半分そう予想していた真田に違わず、盤は眼を僅かに見開く。

「あー、今日、バレンタインやっとうね。―――何で今年はくれようと」

心底不思議そうに、眉根を寄せた盤に、真田は動かしていた箸を止める。

「自分の認識を改めただけだ。傍にいてくれて感謝している、ありがとう」

晒された素顔の中で、どこまでも折れなかった瞳が、ゆっくり大きく上下した。

「……」
「どうした」
「ん―――やっぱり真田さんは、真田さんばい……。で、お返し、要るん?」

少し呆れ気味に、だが確かに顔を緩めた盤に、真田は傾げた首を振った。

「ああ、ホワイトデーだったか。別に気にしなくて良い。俺がお前に、好きでしているだけだ」
「……ふーん」

詰まらなさそうな口調で、その癖少し外された視線が、照れている時の仕草だと気付けたのは、いつのことだっただろうか。ふとテーブルの上を見れば、空いた皿が目立っていることに気付き、自然に口元が緩んだ。食事の量が足らなかったかもしれない、と思いながら、他人に自分が作った物を食べて貰える気持ち良さを感じる真田自身が、確かにいる。

「用意してくれるなら、断ったりはしないが」

まあ、どの道食事が済めばデザート代わりに食べるのだからと、冷蔵庫へ入れたチョコレートを取りに席を立つ。後ろで小さく、気い向いたらええばい、と呟く声が、真田の背を通り抜け、胸を包み込んだ。





傍にいて欲しいと思った。
そう言った真田に、あの日の後姿が思い出された。言葉以上に、温かみと切なさまでも感じさせられていたのだと、寛げる空間に居ることで気付かされた。

「真田さんと会うたって、デパートでか」

そろそろ、日付を越えようかと言う時間、真っ白なシーツの上で茶色の菓子を口に含む大羽に背を向ける形で、嶋本は窓の外を向いている。意外そうな声音に振り向いて、そこにあった鋭い目が見開かれていることに、肩を竦めた。

「お前、昨日基地やったやろ。それ買った場所でな。どうかしたか」
「いや、真田さんでも、こげなことするんじゃな」
「……みたいやな」

驚く程意外に思わなくても、と思っても嶋本自身が意外に感じたのだから、嶋本より真田と付き合いの薄い大羽は尚更だろう。ただ、真田は大羽を多少なりとも理解している発言を見せていたことも確かだった。
そう、肝心な部分で、実は真田は誰よりも物の真実と根底が見え、揺るがしようの無い事実を受け入れているのではないか。昨日の会話を反芻していると、そう言った気がしてならない。

「嶋さん?」

黙り込んで、再び視線を窓の方へ向けてしまった嶋本に、だが大羽はいつもならしそうな―――横から顔を覗き込んで来る様な―――ことをしない。鈍感な癖に、妙な所で鋭い奴や。付き合い始めて何度目かの感心を覚えて、ふい、と再度、視線を窓の外へ向けた。

「―――あの人は、ほんま、真っ直ぐな人や」
「真田さんのことじゃったら、そう思うが」
「現実の虚しさとか温かさとか、全部受け止める。せやから多分、なんや、傍にいてくることを奇跡や思おてる」

今までの会話とは全く異なる内容を、大羽は口を挟むことなく、黙っている。嬉しそうにチョコレートを噛み砕いていた音が、気を遣ったのか小さくなり、やがて止んだ。

「盤、前に大怪我したやろ」
「あ、ああ。もう結構前の感じもするが」

それでもまだ片手で足りる年数しか経ってはいない。同期だった大羽は、盤と言い争いもしたし、最初など決して仲が良い方では無かったのに、事故をしたと聞いた時、これ以上無い程の衝撃を覚えた。
日々がどうであれ、大羽にとって苦境を共に乗り越えた仲間だったのだと、胸の痛みに教えられた。嶋本に取っても、立場は違えどもそれは同じだった。初めてのひよこ達で、その分手を焼かされた覚えがある。あれから、まだ数年の歳月しか流れていないことが、嘘の様にも思える程多くのことがあったけれど、逆に、それだけの年月が経っても、忘れられぬことがある。

「俺は、知らせへんかった」
「は?」
「俺は知らせへんかった、真田さんに」

盤の状態が落ち着いてから、やっと知らせた時の、電話口の真田の声は、僅かな動揺を見せ、すぐに平然とした質に戻った。

「は、え、嶋さんが知らせる言うたけえ、誰も連絡せんかったんじゃろ」
「そうや。せやから、俺が知らせる、言うたんや」

窓の外を無意識に睨み付ける嶋本の目に、ガラス越しに大羽の顔が見える。責めるで無く、なぜと問う眼差しに、抗う訳でも、言い訳がしたい訳でもなく、言葉を紡いだ。

「知らせても、真田さんが帰って来れる訳や無い。盤も、心配されんの嫌がる方や。俺は、あいつの意識が戻って、今後が判るまで知らせへんかった」

抑揚に掛けた物言いを、黙ったまま聞いている大羽を見ながら、ガラス越しに映った嶋本自身の顔は、何とも言えぬ面をしている。

「後で知らせて、電話口では何も言われへんかったけどな。帰国しはって、もう一回、知らせへんで済みません謝ったら、一発殴られて、謝られた」

迎えに行った空港のロビー。混雑する中だったからか、それとも注視されない程に、誰にも気に留められない程度の行動だったからか。

「へ、殴るて―――真田さんがか」

さすがに驚いて、嶋本の方へ僅かに近寄って来た大羽に、つい笑いが出る。

「ちゃんと、殴るって、断った後やったけどな」

振り返って薄く笑った嶋本の表情に、大羽は、その身体に伸ばしたくなった手を押し留める。それに気付かぬ振りをして、軽く目を伏せた嶋本の脳裡に、昨日のことの様に、鮮明に浮かび上がった。

―――謝らないでくれ。
お前は悪くないと示しているのか、胸中の何かを拭う為か、真田の首が一度横に振られる。

お前の判断はきっと正しい、俺は平静を保てたか判らない。だが、やはり知っていたかったとも、思っている。
だから、済まない。―――

「今でも覚えてんで」

殴る時すら、嶋本がよろめかない程度に加減して、綺麗に頭を下げた真田に、頭上げて下さいと、月並みなことしか言えなかった。

数日後、官公庁へ出向いていたはずの真田を、嶋本は偶然基地内で見かけた。スーツ姿の真田が仮眠室へと音も無く消えて行く。理由など、少し考えればすぐに判ったはずなのに、つい追いかけていたのは、一年前の、習慣みたいなものだったのかもしれない。
仮眠室の、ひんやりとした取っ手に手を掛け、力を込めようとして、隙間から見た中の様子に、取っ手を握り締め、もう片方の手を更に重ねた。

仮眠室にあるベッドの一つ、その横に真田が膝を着いて屈み込んでいた。小さく、名を呼ぶ声が、どうしてか、はっきり嶋本の鼓膜を震わせ、寝ている人物を明らかにしてくれた。反応を返さないところをみると、起きている訳ではないらしい。それにも関わらず、真田はその場に膝を着いている。薄闇の中、真田が伸ばした手が、寝ている盤の頭へ伸びた。何度も何度も、髪を梳く仕草を繰り返す。最初に名を呼んだ後、何一つ声を出す事無く、沈黙したまま膝を着いている後姿を見て、不意に胸に込み上げて来るものがあり、堪らなくなった。

「何、言うんか判らへん。見てる俺が泣きたくなった」

ありがとう。ここに居てくれてありがとう。
愛しさよりも、思いを寄せる相手に触れている喜びよりも、そう連呼している様に思えて仕方なかった。無言で告白する仕草に、きっとこの人は、慟哭であっても、同じ様にするのだろうと思った。

「嶋さん」

窓の外ばかり見ていた嶋本に、ぎりぎりの位置まで大羽の手が伸びる。

「ごめんな」

短い謝辞に、思わず振り向いた嶋本の目先に、情けなさそうに下がった目尻が映った。

「何でお前が謝んねん」
「嶋さんも辛かったんじゃろ。俺、何も知らんで済まんかった」

嶋本が大羽に謝られる筋合いなど無いことなど判っている癖に、一歩間違えれば馬鹿にしているとも取られる科白で、大羽は嶋本の両肩を掴んで顔を正面から向き合わせる。

「阿呆か。お前に気遣われる問題違うわ」

怒るよりも、呆れて溜め息を吐いた嶋本へ、更に、そうじゃけど済まん、と謝った大羽に、不意に目頭が熱くなった。

「……ええから、さっさとそれ食え。―――来年はお前寄越せや」

ぺしり、と肩を掴んでいた手を叩かれたくせに、喜色を浮かべた大羽の、間の抜けた顔に、嶋本は柔らかな気持ちを起こさせられる。そんな相手がいることが、幸せだと思った。




(初出/2006/08/11「隣を行くひと」より2007/07/14/再掲:無修正)



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