>>押尾さん03+真メグ 繁華街のビルの一角。明日から遠い地へ飛び立とうと言う真田の最後の送り出しを名目に、馴染みの居酒屋で飲み、壮行会の締めは歌だとカラオケへ梯子とよくある行程を辿っていた。補足するなら、一度だけでは勤務の関係もあって皆が参加出来ない等の理由から、送られる真田は今日を含め三回引っ張り出されている。三度の壮行会では、同じ人物が二人参加していることもあるらしく、壮行会なのかただの飲み会なのか判じかねるところが無きにしも非ず。真田自身は出立を控えていると言うのに、最後まで官庁へ挨拶に訪問し飲み会に引き出され多忙なことである。一応誘う側も明日のことを考えてか、まだ時計は短針で言えば十の文字を示していた。どちらかと言えば腕時計はアナログ派だが、勤務中と非番とでわざわざ時計を付け替えるなど面倒で、結果押尾の左手首には―――一見の時刻の見易さで購入した―――デジタルが何十年か居座っている。 切れた煙草を店外の階段踊り場にある自動販売機で求め、また賑やかな―――黒岩率いる一隊をはじめ同じく非番の押尾四隊隊長以下、当然に二隊隊員を含めて個室に散らばっている―――階下へ戻ろうとした耳に、外気が人の話し声らしきものを連れて、踊り場から伸びる非常階段の、薄く開いた扉から入って来た。 暦上の春先とは言え外は寒い。誰だか知らないが開けたら閉めるものだと、冷たそうな金属製のノブに手を伸ばすと、鉄扉の隙間から珍しい組み合わせを目にした。 具合の悪そうな青年の、おそらく本当なら顔をアルコールで赤くしているはずの頬は、非常灯の白い明かりで青白い。冷たい鉄製の非常階段の踊り場に座り込んで、手摺りに寄り掛かっている目の前の男を見上げていた。そう言えば酒に弱いとの居酒屋での自己申告を思い出し、多分同じ個室にいたのだろうスーツ姿の男には案外世話好きだとの面を見つける。まあ自隊の者であるわけで、声をかけておこうとした押尾の目先で、仕事以外では構うなと言わんばかりに小生意気で無愛想な顔が綻んだ。 「もうそろそろ、中戻らんでええと」 「お前は無理だろう」 「黒岩さんに言うて、ちゃんとオイ飲めん言うたけん」 片手で額にかかる前髪を盤は鬱陶しげに掻きあげる。不意に吹いた風が更に前髪を舞わせ、僅かの間であるものの形のよい富士額が露わになって、呆れた様に下がる眉尻が垣間見えた。 「真田さんの為の壮行会やろーもん」 「感謝しているが、祝われる本人はほどほどでいなくなった方がいいんだ。個室に分かれた時点でお開きみたいなものだろう」 真田が手に持っていた、店員にでも頼んだのか湯気のたった茶色い液体が揺れるグラスを差し出された盤が、存外な程に表情を緩める。鉄製の扉が立てる耳障りな音に気付いて、片二重を持つ瞳だけが押尾を振り仰いだ。煙草のパックを懐へ押し込む押尾の姿を見とめて軽く頭を下げ、迷惑掛けてるなあ、との言葉には短く否定を返す。盤も釣られて押尾を見上げるが真田とは反対にこちらは反応が鈍い。言葉の明瞭さとは裏腹に、押尾を視線の先に収めているくせに、階段を降りてくる姿をはっきりと判断できていないらしい、もしくは傍にいる真田のことしか酔った頭で認識できないのか。すぐに真田へと眼差しが戻された様子から判断するとおそらく後者なのだろう。 「変に優しくしてくれんでよかよ、かえって迷惑とね」 だが、温度で手を温める様にグラスを両手で握りながら、はっきりと意思を示していた。 真田に憧れて羽田に来たのだと耳に挟んだ覚えがあるが、何かの間違いではないだろうか、そう思わせる程に微笑みとは一転、冷たくきつい科白を意外に思う。仮に憧れがなかったとしても真田の方に親切心があったとすれば、否あるのだろうけれども、かなり失礼で初々しい新人として身を弁えぬ発言に違いない。 自分の部下はあまりに口が悪いと思いながらも、肝心の真田はと言えば、言いに眉を顰めるでもなく無表情の中にも思案を浮かべている。押尾とて早々真田の性格など奥底まで理解してはいないが、大方の人間は盤の物言いに顔を曇らせるだろう。だが真田は欠片もその気配を見せない。珍しい組み合わせだと思ったが、どうやら偶然では無さそうで仕事以外に繋がりがあるとも考えられる。又、もしそうならば押尾が―――部下の管理責任者として―――いつまでもこの場に止まっている必要は無い。 もう一度真田へ声を掛けて、盤の面倒を変わるなり踵を返すなりしようかと思っていた矢先、真田が盤に呼ばれるまま屈んだところをぐいと勢いよくネクタイを引かれた。灰色のコンクリートの壁と鉄の床を相手に痛そうな音を立てて、真田は盤の頭を挟んで両手と片膝を着くが痛みに顔を歪めてはいない。 互いに間近にある相手の顔に動揺も見せず、盤は不機嫌そうに言う。 「余計なお世話なんかいらん」 「―――それは悪かったが、別に明日からインドネシアに行くから優しくしている訳じゃない」 少し間を空けて、だが盤にしてみれば拍子抜けする程の即答だったのか、二三度ゆるりと瞬いた後掴んでいたネクタイを放した。壁に沿って立ち上がろうとする盤の腕を真田が引いて手伝うが、それには拒否は見せない。 真田が他人の面倒を見ることを厭う性格とは思わないが、この部下の言い分からして盤自身、真田に普段と違う扱いをして欲しく無いと言うことなのだろう。ただ、どうにも掴みかねている関係を踏まえるとすれば、どの位が、例えば真田が常に隊員と接する時の態度なのか、それとは別の、盤にとっての常の真田の態度なのかは判らない。管区時代から縁があるのか単に馬が合うのかそんなことは判らないが、正直、別に知らなくていい人間関係に迂闊に足を突っ込んだらしきことが、面倒だなあとの―――後の祭りにしろ―――思いが強い。同時に無愛想な新人を慣らすには丁度いいかも知れぬと、自覚している意地の悪さを覚えた。 しかし以前見かけた盤と同期達との会話でも見せなかった笑顔を向けるくらいであり、酔っ払いとは言え多少手荒な行為に出られても不快に思わない辺を見ると、大分親しいのだろう。おまけに今の真田の発言もある。立ち上がった、否、上がらせた盤が片手で危なげに持つグラスを取り上げる等どこか甲斐甲斐しいと言う、押尾が今までに知っていた真田から逸脱した様な言わば新境地にも思える。 それに慣れているらしい盤が、薄く笑った。 「冗談ばい。けど気遣わんとていて、縁起悪かもん」 「―――意味がよく判らないんだが」 真面目な顔で縁起の悪さを考えても思いつかないのか、首を傾げた真田に、盤は正確な答えを返そうとはしない。ついでに言えば聞いている押尾も意味を掴みかねているが、当の盤は真田の疑問はもちろん認識していない押尾のことなど、気にも留めていない。 すい、と戯れにか伸ばした左手の指先が、少し上にある真田の顔の二重下辺りで止まった。 「盤」 「いつも通りでよかね、で、一年後に普通に帰って来てくれたらええだけと」 「――――――判った」 どこに触れることもなく下ろされた盤の左手が、持ち主自身と真田の間で翳すように止まる。隙間から真田の表情を覗いている様な仕草に何か意味があるとは押尾には思えない。ただ、非常階段口で見たものよりも、尚柔らかい笑みを浮かべた盤とそれを聞いて常の怜悧な顔を和らげた真田の双方に、そういう顔も出来るのかと感想を抱いた。そう言えば、気にするようなことでは無いと思いつつ、真田は彼を苗字ではなく名で呼んでいる。 「どうせオイ、ずっと好いとうままやねえ」 独り言の様に声を出し、壁に凭れ掛かったまま僅かに自嘲を含めて楽しそうに唇を弧の形に変え、そのまま瞼を下ろす。そのままずるずると落ちそうになる身体を真田が途中で抱えた。意識を落とした者特有の重さを軽々と受け止め、器用にグラスの中身も零さない男に押尾は肩を竦める。なるほどと、知り合いよりもしっくりとする関係に納得した。 少々眉を顰めてしまう暴言は言ってみれば盤特有の感情伝達で、押尾よりそれを理解している真田には不快に思う理由は最初から無かった。インドネシアに行くから優しくしている訳では無いと言う科白の裏にある、判り易い特別は常の物で、だから笑った。真田は特に答えはしないが、ベクトルの強さはともかく方向は互いを向いている。同時に、石井盤と言う己の部下が非常に捻くれた人間だと言うことに気付いた。 明日からの派遣は普通の派遣ではない。別に一般会社員の海外派遣が安全だと言うつもりは無いが、指導の為とは言え最初から危険値の高い場へ向かうのだ。国内での海難とて、一歩道を外せば特殊救難隊誓約を破る結果を生み出してしまう。 意識を落としたこの青年は、一年間不在の前だからと言って特別どこかへ出掛けたり、特別何かを貰ったり、そう言った言わば記念や記憶に濃く残る出来事が欲しく無い。出立前の思い出と言えば大概綺麗に懐かしく残るものだろう。ただそれは、逆にもし帰って来なかった時に盤としてみれば辛いだけあり、綺麗で温かな思い出を大事にして生きて行ける性格ではないらしい。同時に、何か特別なことは、不吉と同義語になっている。 どうせ、とは、万が一があってもなくてもと言う意味なのか。そこまでは判らない。 無意味なことだと知っていても、関係以上の特別を拒絶しなければ万が一の喪失を受け止めらず、それは畢竟、どれだけ気持ちを傾けているかに他ならない。小生意気で無愛想だと思っていたが、案外可愛い気がある。ついでに言えば、からかいがいも、に間違いない。 真田も、判らないことは判らないと言う性質だから、そう言った素直ではない捻くれ気味の盤を、疎通できる程度に理解しているのだろう。 「どっちか持とうか」 半分揶揄する様に尋ねれば、ありがとうございますと押尾の予想違わず真田はグラスを頼む。しかし、明言では無いにしろ秘しておきたい関係を余人に知られた状況を判らない訳では無いだろうに、眼前の男の様子は普段と全く変わりない。これがたまに耳にする、真田さんだから、だろうかと思えば己の柄で無いにしろ納得出来そうで笑えた。男同士だろうとは、この際気にしない方がよさそうである。 貰うぞ、と言うだけ言って返事を待たず受け取ったグラスの中身を口内へ注ぐと、大分温くなっているが、酒の回った身体と夜の気温には心地いい水分が胃を潤した。 「済みませんが、連れて帰ります」 現役の長い隊員達には劣るがそれなりに筋肉を付けている成人男性を抱えていると言うのに、端正な面には欠片もその様が現れていない。落とすことを懸念したのか、丁寧に黒縁の眼鏡を外しスーツの内側へ仕舞う。 「構わないだろう、誰も誰が帰ったかなんて知らんだろうしなあ。見送られる当事者と新人相手に会計しようなんて誰も思わん」 気を付けて帰れよと、次の日から派遣に行く人間相手には相応しくないかも知れぬ科白を掛けると、真田も明日から一年間続く己の立場に触れることなく、軽く会釈を返した。 「ごちそうさん……ばい」 いくら盤がよく食べる、地元潜水士達の中では大喰らいだったと言えども、特殊救難隊当直夕食時のこの量は多い。特殊救難隊はよく食べる、まさにその通りだと実感していた。 それはともかくとして、千円分のオムライスなど、いい加減味も途中で飽きてくる。その他特大ラーメンに大盛りご飯に同じく大盛りの青椒肉絲、一番最初に出された時は腹が痛くなりそうな予感に青くなった。約一月前の壮行会で、ひよこ時代の星野の部屋以来久々に、望む望まずに関わらずゆっくり話す機会を得た大羽も同様だったと聞いたから、他二人は知らないがどこでも同じ歓迎の仕方なのかもしれない。 「おー、完食したか。相変わらず青い顔だな」 「放っといて下さい」 もう十数回は経験しているが、未だ当直時のこの量には慣れない。隣で特大の醤油ラーメンを大盛りのモヤシや葱と一緒に啜る同隊の、盤より三期上だと言う男が笑う。その食べる様すら見たくなくて、食べ終わった皿を重ねて席を立ち上がった。食事が済んだら迅速に皿洗いの則の元、給湯室へ向かう途中で先に済ませた隊員とすれ違う。軽く頭を下げた途端に気持ち悪さが襲ってきそうになり、つい胸の辺りを擦った。直ぐ先の給湯室からは皿同士が当たる音がする。 「やっと食い終わったかあ、さっさと慣れろよ」 「努力しますけん、背中叩かんで下さいとね」 盤より遅い隊員もいるが、彼等は盤の量に加えて一品。因みに先客の押尾もそうである。最初の日から毎回、食事後に気合を入れる為か何なのか、弄るように思い切り背を叩かれた。叩かれた背も痛いがそれよりもはっきり言って、胃に詰め込んだ食物を吐瀉物へ名称変化させそうで敵わない。 「良かったな、勤務日だっただろ」 水道の水を流し続け皿を洗う手を止めぬまま、一人用のシンクの為押尾が洗い終わる迄待つことになる盤へ唐突に、意味を取りかねる言葉が投げ掛けられる。 「はあ……何がですとね」 「是が非でも行けないからなあ」 「何の話と―――」 「見送り」 あっさりとした返答にかえってぎくりとしてしまい、動揺を読み取られない様に至極平静に表情も変えぬまま、ただ手に持った皿に力を込めた。盤が思い付く見送りと言えばほんのひと月前のことくらいしかない。 「……真田さんの見送りに行く理由なん、なかったとですよ」 「誰の見送りかなんて言ってないぞ」 「別に、最近の見送りされた人言うたら誰でも推測出来ようもん」 「一年は長いよなあ、最後に顔ぐらい見たっていいだろうに」 「やけん、別にオイが行く必要性なかとですよ。大体仕事や言うたん隊長さんの方ばい」 非番でも空港で見送りなどするつもりは無く。 人の話を右から左へ流して、少しは聞いて欲しいと思いながら苛立ち混じりの声音で言い返した盤に、背を向けて皿の水を切っている押尾が予想外のことを口に漏らした。 「薄情な交際相手を持つと真田さんも不憫だな」 ありがちに言えば、明日は午後から晴れだな。程度の軽い口調。互いに独身だから不倫じゃないよなあ、と暢気な発言も聞える。 「不倫て……真田さ―――――はい?」 自分の耳を疑いながら出たのは盤自身間抜けと思うほど気の抜けた声で、連動するように少し力の抜けた手から皿が落ちそうになり慌てて抱え込む。皿を割ると弁償だと淡々と注意してくる押尾に、頭の隅で半分そっちの所為だと文句を吐ける己がいたが、それよりも多大に重要な科白を押尾は口にしていた。 「何のこつ言うて―――」 「壮行会でお前が言ったんだろうが、大体真田さんも知ってるぞ」 「……オイが何言うたって」 「あー、まあそのうち教えてやるよ」 寝耳に水もいいところで、瞠目したままの盤を、最後の最後で振り向いた押尾が心底楽しそうに笑い、水にずっと触れていたお陰で冷たい手で盤の髪をかき混ぜる。いつもなら眉間に皺を寄せるところだが、今知らぬ間に盤はそれを忘れており、動揺を見せないようにとはどこへやら、押尾はその違いにしっかり気付いていた。 「え、……あ、ちょっと隊長さんっ」 真田も知っているとは一体どういうことなのか。 なぜ一月も前の話を今頃持ち出すのか。 壮行会で行ったカラオケの途中から朧気にしか無い―――黒岩に無理矢理飲まされたことや、冷たい階段で真田と会話をしていたことは何となく思い出せるが、意識がはっきりしたのは官舎へ真田に連れ帰ってもらってからで―――盤の、曖昧な記憶に何があるのか。ついでに言えば、真田も盤自身も同性であることを、押尾は少なくとも見た目には抵抗なく喋っているのか。 出来れば聞き捨てておいてしまいたい発言を残し、押尾は、扉の無い給湯室の入り口に、訊きたいことと驚きで頭が飽和した状態で寄り掛かる盤の横をするりと抜ける。背を向けたまま、とどめ代わりに顔赤いぞと言われた盤の、実のところ少し色付いているだけだった頬が林檎の様に染まった。 押尾さん03……三部作みたいな感じもします(笑)。前の二作に何の布石もなくこれだけで読むことも出来ます、繋げて考えて下さっても大丈夫です。 05/10/29 |