機内から見える眼下の無数の灯りから、暗い彼方へと視線を移しても何も見えはしない。
方角としてあっているだろうかと考えた自分自身に自嘲の笑みが漏れた。








隊長以下、仕事先から帰還した盤以外の第一隊隊員は揃って飲みに行ってしまい―――
常なら付いて行ったものの何かに呼ばれる気持ちに誘いを断って―――交代で業務に就
いた隊の机の横を通り、交代でがらがらになった一角に戻る。海難救助を終えた後ならで
はの一息を吐きながら、机の上に置きっ放しにしていた携帯のサブディスプレイを見ると、
三度程の着信と一通のメール受信表示が出ていた。ここ何年かで主流型になった折りた
たみのシェル型の携帯を開いて、先に着信相手を確認し。

「……掛かっとう」

見覚えがあるどころか盤自身待ち望んでいた相手からの電話を取れなかったことに落胆し
たものの、手の中に納まる大きさの機械で手軽に国外と通話が出来ることに今更ながら
に感心を覚える。数年前は海外と国内で同じ携帯は使えなかったのだが、最近の新機種
は揃って国内海外兼用で便利になったのだから、正に技術の進歩は目覚しい。
だが、どんなに進歩を見せようが電話は電話、着信相手が取らなければ通話が出来る訳
も無く。

「タイミング悪かね、本当」

呼ばれるような感覚で飲みの誘いを断ったのはこれ故なのかもしれない。掛けてくれてい
た時間は三度共一分半、それ以上になると盤の携帯は録音のない―――要するに再度
コールを願う音声が流れる―――留守番応答に切り替わる。
着信時間は今から約二時間前、単純な計算をすれば救助に出て数十分後。現地との時
差は大したことはないけれども、やはり時間的に今から掛け返す訳にもいかない。今だけ
でなく互いの仕事が仕事だから、電話など盤から掛けるにしろ真田から掛けるにしろ中々
双方出られない。真田の方はどうか知らないが、盤の携帯では消されずに延々溜まる着
信履歴を空しく見ることの方が多くなっている。溜め息を吐いても変わらぬ事実は、ここ三
月で嫌ほど判らされたことだ。ただ、それでも、無いよりは余程良い。
着信履歴と言う真田からの痕跡は、直接会話をすると言う行為からすれば寂しくあるくせ
に、盤を落胆させるだけではなく、存外に安堵させていた。

「あ―――何か女々しか――――――」

履歴を眺めていても何が変わるわけでもない。受信されていたメールを真田からかとも思
いながら、盤は彼が滅多に携帯のメールを使用しないことを知っている。苦手と言う訳では
ないが、真田の頭の中で携帯は声を通じ合わせる物であって、パソコンがあるのにも関わ
らずメールを交わすものではないらしい。そんなものだろうかと思いながら、他人の考えに
否やを付ける気も無く、また、盤としてもどうせならば声が聞きたいし、それこそメールはパ
ソコンでする。
僅かな期待をあっさり裏切って、受信していたメールはやはり真田からではなく、ついでに
見覚えの無いアドレスで、後で削除しようとそのまま携帯を閉じると代わりに持ち歩いてい
るノートパソコンの電源を入れた。静かな音がして青白く画面に光りが宿る。どうせ後で作
成を命ぜられる報告書なのだから、下書き程度にまとめておこうと、つい数時間前には冴
えて緊張感に占められていた脳の記憶を呼び起こす。薄いキー上で指を滑らかに躍らせ
ていると、特徴のある言が耳朶を打った。

「お疲れやったな」
「嶋本隊長」

片手を挙げて近付いてくる嶋本に、そう言えば彼の隊との待機交代だったかと思うがそれ
にしては同隊の兵悟を見ない。気にしている訳では無いが、いつも向こうから声を掛けてく
るので、それが無かったことで頭は嶋本の隊を除外していたらしい。手を止めて横を見上
げると小さめの、適当な書き止めらしい白い紙をひらひらさせている嶋本の手が目に入っ
た。その後方に、こちらに背を向けている評判のスキンヘッドの頭が見える。見える頭は
あと二つ、そのどこにも兵悟は見えない。
まあ兵悟に何か用事がある訳でも無いしと、少し首を傾げて勝手に納得していると彼のこ
とと推測されたのか、丁寧にあいつは仮眠室やと教えられた。

「や、別に兵悟君は」

どうでもよいと言うか、別にそういう意味ではないのだと、割と酷い科白を途中で切ったの
は盤が何を慮った訳では無く、携帯が振動した為に意識がそちらへ逸れた故である。一度
だけしか震えなかった携帯電話に、着信ではないのかと少し落胆していると、上げた視線
の先に何故だか哀れんだ色を瞳に浮かべた嶋本がいた。

「……なんか?」

哀れまれる筋合いなど、その見当など欠片も付かないし、大体にして勤務時間真っ只中
の嶋本が、仕事に余裕があるとはいえ一隊員の、しかも新人隊員でしかない盤に一体何
の用なのか。

「いや、神林もつくづく報われん言うか。これ薄いな、新しい機種か」

盤の数種の疑問が込められた科白を、言いたいことだけでさらりと流して、机の上で一瞬
震えた精密機器を手に取ると、あたらしゅうなる程軽量やなと言いながら嶋本は器用に空
でくるりと回す。落とさないで欲しいとの科白の代わりに、盤は片眉を上げて脈絡の無い
兵悟の名に疑問を呈した。

「この間。なして兵悟君とね」
「お前にメールしても二、三通で終わってまうて泣きよった」

泣きついて来られてもどないせえ言うねんなあ、と同意を求めるにも似た呟きに、眉を顰め
た盤は冷たく答える。悪かったな返すわ、と無理矢理手に押し込められた自分の携帯の、
メール受信表示に僅かに目を眇めた。

「……別に職場で会おう思ったら会えるし、第一用も無いのにメールする趣味はなかよ」
「ちょっとくらい付き合ったれ」
「面倒ばい」
「せっかくの同期で出身管区も同じなんやし、繋がる話も多いやろうに」
「そんなん言うなら嶋本さんが付きおうたらいいばい、隊員やろーもん」

勧める口調にいい加減感じたしつこさで生じた、上司に対するには不釣合いな、不遜な物
言いにも嶋本は怒る素振りを見せない。普段なら拳骨の一つでも落とされてもおかしくな
いはずなのに、だが盤はそれに気付くことは無く、手の内に戻された携帯に知らず力を込
める。拍動など持ちはせぬくせに人の体温で温くなり始めたそれを、茶色の瞳で眺める盤
に、嶋本がふい、とどこへともなく視線を遣り、寄りがちな眉間の皺を緩めて呟いた。

「気い晴れるかもしれへんで」

無理にとは言わへんけど。

びくりと、一瞬震えた薄目の肩にも気付かない振りをされ。いきなり挟まれた気遣いに、盤
は瞼を数度瞬かせて横に立っている男の顔を見上げた。だが、その表情が何を考えてい
るのか読み取れない。ただ、気まずさの欠片も残さぬあざやかさで嶋本から向けられた科
白を自分なりに噛み砕いて、盤はゆっくりとヘリコプターの中で作ったものと同じだろう嘲り
を浮かべた。

「比べる対象間違うとるよ。……大体兵悟君もオイにメールする暇あるなら、こっちに来とる
彼女さんにでも連絡したらよかばい」

手元の薄っぺらい、軽い物。
一度着信相手を確認してしまったから、サブディスプレイには先程届いたメールの通知以
外何も表示されてはいない。それでも、手の平に収まる程のこれが真田へと繋がっている
ことは確かである。地球の裏側程には遠くないが国内程にも近くない、マラッカ海峡近辺
での保安対策に派遣されたインドネシアは日本の海より危険度も高く、派遣期間は一年
間だが、会っていないたった三ヶ月でも不安になる。
掛かって来た、掛けた電話を互いに受話出来ない現実に盤が慣れ、姿は勿論声すら聞け
ない分を、着信履歴で補えているのは、それが真田の生命が安全である事実を示してく
れているからだ。

「オイにかまけて、せっかくの彼女さん逃がさんでもよかやんね」

おかしげな口調で喋る盤が薄く笑む表情は、嶋本がどう贔屓目に見ても無理矢理なもの
で、同時にその瞳は追及を拒んでいた。

ひよこ時代から気付いていたが、本当に予想以上に手のかかる。嶋本自身がそう思いな
がらそそれでも構ってしまうのはやはり性分なのだろう。意識か無意識か、どちらかは判ら
ないにしろ明確に示された拒絶と、自らの性格に溜め息を吐く嶋本の耳に、不意に、至極
心の通った声が聞こえた。

「生きとう」
「―――あ?」
「それに」

言葉が聞こえなかった訳でも理解出来なかった訳でも無い。単純に脈絡の無さに口を開
いた嶋本を余所に、もう慣れとうし、と諦念が混じった、その割りになぜか嬉しさの読める
声音が吐かれる。二番目の言葉に眉根を寄せた嶋本に、再度同じ科白が繰り返された。

「慣れとう」

慣れてしまったのか、状況が盤に慣れさせたのか、盤自身にも判りはしない。ただ、出ら
れなくて残った着信記録を見て溜め息だけ吐くのではなく、会話などしてもいないのに着
信に安堵する、無事だと知らせてくれている様な着信を嬉しいと思う自分が確かにいる。
色々と気の付く嶋本からどう見えているのかは知らないが、何となく彼が声を掛けて来た
理由を察した。

「心配してくれると」

わざわざ盤に声を掛けて来たのは、出動した隊の中で唯一基地に残っていた盤に対する
労い半分、嶋本の生来の優しさ半分なのだろう。それを邪魔だとは思わないが、盤にとっ
てどこか居心地が悪い。

「嶋本さん優しかね」

にやりと笑って、揶揄めいた口調で流そうと試みて、変わらぬ相手の表情に失敗したと舌
打ちしそうになる。からかいを寄越された方は思惑通りに流されず、暫く嶋本は眉根を寄
せていたが、やがて肩を竦め盤の方へ手を伸ばすと、思い切りその額を人差し指で弾い
た。突然の行為に当然避ける間などなく、痛覚に思わず目尻を滲ませる盤に、これで終い
とばかりにぐしゃりと乱暴に頭を撫でる。手つきは違えども誰かを思い起こさせるそれに驚
き、何をするのかと問うことも忘れて瞠目する盤に、まあええけど、と嶋本は半分だけ背を
向けた。

「石井――――――盤」

言い直したのは、よく聴けとの含みか。それとも親しみか。

「自分に嘘吐くなよ」

乱された髪を適当に整えながら、何ね、と視線だけで訊いた盤に、軽い口調の癖になぜ
か酷く重く聞こえる声が届いた。

「まだ半年以上あるんや」
「何――――――……言いたか」
「慣れるなんてな、熟年夫婦じゃあらへんのやし。多少迷惑思われたかて、声聞きたかっ
たら掛けたらええ。あの人もそこまで鈍ないし、公私相容れん人でもない」

第一隊が海難救助に出掛けた待機室、代わりに待機していた嶋本達の耳に何かが震え
る音が入って来た。おそらく携帯のバイブレーションなのだろうと判じたものの、一向に振
動を止める気配が無い。一度止んだかと思えばまた震え始める。誰のや、と隊員の顔を
見るが誰の持ち物でも無いらしく、出払った第一隊の机を見れば着信ライトを点滅させて
携帯が震えていた。耳につくバイブレーションの苛立ちから、電話切ってやろうといった意
地の悪いことでもプライバシーを覗こうとの意思でもなく、ただ掛けてきている人間が判り
尚且つ嶋本が知っている相手ならば、持ち主は仕事中だと教えてやろうと思っただけだっ
たのだが。
サブディスプレイに延々表示されていたのは、嶋本も見知っている、だが嶋本では出られ
ない名前だった。同時に携帯の持ち主も判ってしまい。
嶋本に存在を知られたことが申し訳無いかの様に止んだ着信に、この人も執着するものが
あるんや、と苛立ちを飛ばして妙に嬉しさを覚えた。

「あの人が携帯でメールせえへんのは俺も知っとるわ」

それやのに電話やないいうて落胆しよって、どの口で慣れとる言うねん阿呆。
口を開く間を与え無い程に転じた語気に加えて、わざと呆れを強めていた嶋本に完全に
図星を指されて、仮に口を開く間を与えられていたとしても盤は何も言えなかったに違い
ない。

それでも、何をと言う訳ではないが何か言い換えそうとしていた盤より先に、待機中の三
隊が座る席から高嶺が嶋本を呼ぶ。応じて、副隊長だった時そのままに返事をする彼は、
だが今はまごうことなき隊長で、しかも一年の派遣で抜けた真田と同じ第三隊隊長であ
る。即座に勤務モードへ切り替わった嶋本は、元教官故か所属は違えども隊長という役
職故か、先程までの労わりとは別の、仲間に対する労いを口にした。

「さっさと帰れ。明日に影響出んようにせえよ」

途中で会話を千切られて戸惑っている盤を無視して、嶋本は今度は完全に背を向ける。
足早に、己を呼ぶ高嶺の方へ遠ざかる、この基地内で一番小さな背に―――小さいのは
見た目だけであるけれども―――盤は居心地の悪さの正体を、底まで見抜かれて心配さ
れる気恥ずかしさと無自覚の内に甘えさせてくれている柔らかさを知った。















嶋本隊長がいい人でもこんな風に優しくないだろうとか。真田氏の名前が会話に出ない
のに、電波でも飛んでいるぽいです。で、ちょっと予想してもしかしてもしかするとと楽しみ
にしていた人事、本当に嶋本副隊長から隊長となりまして、兵悟君が隊員で高嶺さんも
同じ隊で、驚きましたがもちろん嬉しかったです(マガジン43号)。
第一隊と書いていますが本当は第四隊です、判明する前に書いたものと言うことで……。

05/09/21




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