「ぜったい…勝ちたかったのに…」

思い切り叫んだ後そう言った兵悟に、嶋本や周囲にいた隊員、多分真田も驚いていたけれども、何より一番近くにいてデッドヒートを繰り広げていた盤自身が驚いていた。



「ん―――」

四人一緒に基地の仮眠室で休息を許されて、これ以上無い程の疲労感と満腹感に加え、風呂に浸かってからの心地良い酩酊にも似た感覚のおかげで、泥の様に眠り込んだ。目が覚めて、時計代わりにカーテンの閉められた窓を見るとお情け程度の薄明かりが差し込んできている。夕方も過ぎてもう夜なのだろうと、正確な時間を知る為に時計が掛かっているだろう場所に目を凝らすが、灯りの落とされた部屋では時計の針までは視認出来ない。風呂場で外した腕時計は、着ていたノースフェイスの中に入れっぱなしでロッカー室に掛けてある。手元にないことはあっさりと諦めるが、かと言って―――盤以外未だ寝こけている三人を起こすことになるかもしれず、経験した行軍を考えればそれは気が引けるので―――電灯をオンにもし難い。立ち上がると仮眠室から廊下へと出た。

待機室まで行かなくても、その途中の給湯室にも壁掛け時計で用事は済む。もしかして九の文字を短針に過ぎられているかと思ったが、意外にも十八時を過ぎた程度である。眠っていたのは約九時間。あれだけの疲労だったからか、思い切り寝た頭はすっきりとしており、また仮眠室に戻って寝る気にはなれない。かと言って用事も無いのに待機室に顔を出すなどと言う選択肢も選べず、何の目的も無く足を動かしながら基地建物から外へ出る戸へ手を掛ける。力を入れて僅かに開いた隙間から、冬空の寒い空気が頬を撫でた。

「う―――寒かあ」

着ているのは長袖の黒いシャツ一枚。耳までの生地の厚い帽子も無く、防寒要素のある物は身に着けていない身体は一気に冷たい風に切られる。二の腕辺りを擦りながら、何か用事がある訳でも無しに、基地敷地外の方向へと足を向けると、暗くてよく見えなかったドラム缶らしき物に爪先をぶつけた。瞬間、爪先ではなく足裏に走った痛みに声を上げそうになる。なぜ忘れられていたのか、ぼろぼろになっている足の裏が今まで気にならなかったのが不思議で、気が付いた為にかえって痛覚に訴えるものが酷い。
歩きたく無いと思うとは言え、この寒空の下でずっと立っているわけにもいかない。どの道治るまでも自分の足で歩く以外なく、それは盤も他三人も同じである。とりあえず座りたいと、建物に戻るよりは近い、基地内外を仕切っているコンクリートの壁に近付きずるずると座り込んだ。誰かに見られたら不審人物極まりないが、幸いにこの近辺は昼間でも人が少なく、夜になれば尚更だ。
だらしなく足を伸ばして後頭部も壁に凭れさせ、こちらでは欠片も見ることの出来ない、街の灯りばかりが反射する空を見上げる。寒いと訴える感覚を無視して、冬空は美しいと言うが都会では無関係だと、まったく行軍には関係ないことを思いながら目を閉じると、兵悟の心底口惜し気な、そして嬉し気な笑顔が瞼の裏に浮かんだ。

接戦だったけれども盤は負けた訳ではない。でも今までのことを考えれば、追い上げて来た兵悟に、デッドヒートを共に演じた一つ年下の青年に、いらつきを覚えてもいいはずなのに、そんな気持ちは欠片も湧いてこない。むしろ、追い上げて来た兵悟が嬉しく、多分盤自身それを見た瞬間笑顔を浮かべていただろう。追いつかれつつある焦燥感と、追いついてくれているのだと言うおかしな安堵感。そこには、なぜこんな奴が、と見下した気持ちも、どうして兵悟などが真田に気に留められているのかと言った嫉妬心も無かった。劣等感を呼び起こす様なマイナスな気持ちなど見つけられないことが、心地良い。ぜったい勝ちたかったと零された言葉に、優越感を感じることはなかった。

「けど、認めた訳やなか」

兵悟のやり方に、叶えたいと望むことや目指している到達地点は同じであるのに盤とは異なるやり方を選ぶ彼に腹が立つし、行軍の前も今も認めた訳ではない。けれど、いつも音楽を聞いている理由を兵悟に漏らしたのは盤自身の気持ちが緩んでいたからではなく、言ってもいいと思ったからだ。
他人に自分を理解してもらう必要性を感じない故に、その努力を著しく怠っているどころか他人に対して考慮していないことを盤自身自覚している。兵悟もそれには気付いているだろうに、それでも歩み寄ろうとしてくる姿勢を変えない。その、煩いとしか思えない彼に、理解してくれなどと思っていない自分の考えていることを教えてもいいと思ったのは、一度は投げ出した行軍を放り返してきた星野との遣り取りがあったからか。
それでも、兵悟のスタンスをいずれ理解することは出来ても、盤がそれを選択することは無い。歴然とした違いがどこかにある。だから相容れることはないし、盤とは違う兵悟に腹が立つと言うのに、反面相容れずとも良いと思っている。

「―――わけ判らん」

堂々巡りをしている様だと自嘲して、すっかり冷えた身体を振るわせた。
兵悟についてとても単純に言えば、認めてはいないが気になる。行軍もその前の試験も誰にも負けたくなかったけれど、その筆頭は兵悟かもしれない。割と兵悟のことばかり考えている脳に呆れながらふと独り零した声に、不意に呆れと心配の混じった声が落ちてきた。

「何か知らないが、風邪を引く」

ばさりと身体に何かが掛けられる。思考の海に落ちていて足音にも気が付かなかったらしく、突然の声に驚いて開いた瞼の先に、朧気に真田の顔が見えた。

「真田た……真田さん?」
「まだどちらでも正しいが、後者で構わない」
「仕事、終わったんと違ったとね」
「そうだが。嶋本や黒岩さん達も残っているぞ」
「あ―――あん人達も徹夜で疲れとうね、きっと」

掛けられたのはどうやら真田の支給品らしい。内側から掴んで少し鼻先を埋めると、現実の暖かさ以上の温かみがある。そう言えば、どうして自分がここにいることが知れたのかと、視線を真田へ向けると、正確に意を酌んでくれたのか、頷き顔で単純な理由を明かされた。

「偶然中から歩いているのが見えた」
「―――手数かけたと」

そう言いながら盤は立ち上がる気配を見せない。

「そう思うなら戻らないか」
「別に……寝たいわけやなか」

疲れているのなら仮眠室で休めばいいと含有された科白に首を振る。疲れているのかもしれないが、少なくとも今の盤はそれを感じていない。ただ動くのが面倒なのかもしれないが、少し思惑を巡らしたらしい真田が差し出した手を握り返して、立ち上がりを手伝ってもらったのは甘えだ。

「そう言えば、行くとね」

インドネシア。
行軍途中で聞かされた事実に衝撃を受けたがそれはその後の、もうリタイアしてもいいと思った自分と、星野に助けられた自分、その後の兵悟とのデッドヒートで流れてしまっていた。勿論ショックが無い訳では無いが、気持ちは妙に落ち着いている。せめて、惚れた相手が海外勤務について盤に何も言わなかったことに多少なりとも憤っても良いと思うのだが、事前に言われていたとしても何が変わった訳でもなく、むしろ最初の内から気力を失っていたかもしれないことを考えれば感謝すべきかもしれなかった。
行軍途中で拘泥無く告げた真田を考えると、盤がどう感じるとか、そう言ったことは少しも考慮してなかったと思うのが正しいのであろうし、そう思えば一応付き合っている身としては哀しい。
哀しいし泣きたくなるし、真田にとっての盤の意味を問い質したくなるが、偶然であったとしても建物から出て歩いていた盤に気付いてくれ、気に掛けてくれて、今隣に立ってくれている事実の方が嬉しかった。

「真田さ――――――」
「一年で戻る」

遮られた言葉の内容に軽く瞠目した盤の顔に濃い影が落ちる。自分より背の高い真田が屈んで、ずり落ちそうになったジャケットを盤の肩に掛けながら、唇が合わせられたのだと理解した盤の瞳に、同じ様に開いたままの真田の眼差しが飛び込んで来た。目を閉じないのはマナー違反だと聞いたことがあるけれども、相手が見えた方が何となく安心出来る。と、言うよりも初めて唇を重ねた時、閉じようとしていた先に真田の瞳が見え、それから視線を逸らせなく―――正確には隠せなく―――なった。揺ぎ無いと言えば良いのかよく判らないが、その瞳は今、盤を映している。
冷静に、ほとんど無表情な真田の感情を判断する少ない材料の一つである目に、あまり似合わない請う様な色が見え。一年で、との、真田の口からの直接の期間宣告の裏に隠れている、彼が伝えたいことを理解した。

盤にジャケットを羽織らせたままその胸の前にある真田の両手に、同じ様に盤自身の両手を重ねて力を込める。了解したと伝わるか不安であったものの、ようやく重なった唇が離れて行く。ありがとうと言わんばかりに少しだけ口元を緩められ、盤の手からゆっくり抜かれた右手で頭を軽く叩かれた。

「そうやね。……一年後には新しいひよこが行軍終えとるとね」

少しばかりの気恥ずかしさから話題を逸らす為に、何でもいいからと思いついたことを唇にのせれば、ああそうだ、と頭に乗せられていた手が耳の後ろを通って滑る。そのまま己の手を包んでいた盤の手を逆に引いて、建物へと盤の半歩前を進んだ。いつもより速度が遅いのは言わずもがな、痛いだろう新オレンジの足を気遣った故であり。
言いかけたまま無言で前を歩く真田に小首を傾げながら、だが問う気も起きずに黙ったまま繋いでいる様な手を見ていると段々と真田の影のコントラストがはっきりしてくる。建物からの明かりの所為だとぼんやり思っていれば、真田の足が止まり、それに顔を上げた盤を振り返っていた。

「起きたらしいな」
「は?」

意味が判らない盤に真田が説明を紡ぐ前に、目の前の建物の戸から兵悟達の声が聞こえてくる。当分起きないだろうと思っていたのだが、どうやら三人共目を覚ました上にどうやら騒いでいる様子が建物の外からでも窺えた。

「はしゃぎ過ぎたい、兵悟君」

兵悟の歓喜の声が人一倍大きな音量で盤の耳朶を打ってくる。互いにごく自然に手を離して、盤は肩に掛けられていたジャケットを真田へと返した。戸を開けてくれる真田に促されるまま先に中へと入った盤を、外から真田が呼び止め、めぐる、と音で名を紡いだ唇が、おめでとう、と動く。

「……あ―――……何か、あらためて言われると恥ずかしい感じがすると」
「気に入らないか」
「そんな訳なかろーもん……」

見当違いなことを真顔で尋ねる真田へ即座に否定を返すが、続けようとした照れ隠しの科白を盤は喉の奥で留める。その代わりに、僅かな沈黙の後、楽しそうに唇が弧を描かせた。

「待っとるけん、無事で帰るばい」

一年以上経ったら浮気するさね。

早口で呟いて背を向けた盤の後ろで、珍しく真田ははっきりとした笑みを浮かべた。















待ってて欲しいなら言葉にすればいいとか、甘いなあ等々思いながら、ええと……足の裏本当痛そうです。遠距離恋愛は連絡回数とか気になります。

05/09/15




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