「酷か人やね」

判っとったけど。

言葉とは裏腹に夕日に照らし出されて微笑む表情には名残惜しさが確かにあった。







「石井」

呼ばれて本人だけでなくロッカールームにいたひよこ全員が―――研修期間も検定も行軍も終わって後は配属待ちなのだからもう正隊員と言うべきなのかもしれないが―――振り向いた。そこには行軍直後に特殊救難隊からの異動を知った真田の姿がある。あまりなじみの無いスーツ姿に加え、声を掛けられるまで話題にしていた当人だと言う事と、その彼が呼んだ人物に驚いて挨拶も出来ないままで居る兵悟達を尻目に、盤だけが真田隊長と呟いた。

「ちょっといいか」

用件も言わない、ただその意思だけを告げる短い科白にも慣れてしまっている。声には出さずに頷くことで肯定を示す盤に、真田は外に居る、と先程と同じ様に短く告げて新人達の視線に背を向けた。









「どうもお待たせ致しました―――」

少々ふざけた口調でもって、私服で現れた盤が、眼鏡越しでも判る程眼を細める。光りを反射するそれに、夕日が眩しいのだろうと見当を付けて場所を移動しようかと思っていた真田より先に、盤が基地の外へと足を向け始めた。用事がある様なことを仄めかしたのは真田自身なのだが、お待たせしましたと、兵悟達より遅く出てきた盤はまるで盤自身が真田に用があるかのように行動の先を取る。歩き出した自分に真田が付いてくることを欠片も疑っていないことの証明の様に振り返らない、部下にも出来た青年の後を長く伸びた影を踏みながら付いて行った。

海辺の近くだから風には潮の匂いが混ざる。海難救助でいつも嗅ぐものではあるものの、そう言った時の現場のシビアさとは別に、何も無い日常での匂いは自然と心を落ち着かせた。普段あれだけ海と接していても、結局は海から離れられないのかもしれない。時季的に冷たい風にも関わらず、寒がりな目の前を歩いて行く盤は駅とは反対方向へ、海と陸を隔てる物が堤防だけになった場所で、漸く足を止めた。

「寒いっちゃね本当」

マフラーをきつめに巻き直しながら真田を見遣る瞳とそれが逸らされたことに、ああ、怒っているのかと思い、今更ながらに気付いて納得する。どう言う時でも気まずさに視線を逸らすと言うことをしない真田だが、それを真田に告げたのは盤だった。自分では相手から目を逸らす行為に意味を感じなかったからだけだったので、盤の、視線を外す仕草がインプットされていないのだろうとの言に、世間一般ではそうなのだろうと他人事で頷いていたが、今この状況になって確かに真田自身には視線を逸らす行為がインプットされていないのだと思う。

「―――研修期間が終わって良かったな」
「送り返される程じゃ顔向け出来んばい」

所属していた博多の巡視船のメンバーを思い出したのか、少し遠くを見る様な目はそのまま夕日が輝く海へと向けられる。

「配属の希望はあるのか」

ついそう尋ねてしまい―――確かにそれに関連するような話をするつもりだったけれども―――しまったと思うが、既に盤の額にははっきりと線が入っていた。

「……別にどこでもよか」

理由を言わないのは優しさか、それとも真田を困らせようとしてなのか。それまでの盤を見ていれば容易に推測出来るが、そうさせたのは間違いなく真田自身なのだと思うと申し訳無いながらも口元が緩んだ。海を見ていたはずの盤がいつの間にか真田を見ていて、僅かな笑みを見てとるが、短い付き合いとは言え、怒っても無駄だと判っている。代わりに、真田よりは余程判り易く頬を緩めた。

「酷か人やね」

海風が色の違う髪を揺らす。

「肝心なこと、何一つ聞かせんままばい」

それが示すことが何なのか、判らない程真田も鈍くは無い。異動のこと、その訳、それを考え出した切っ掛け、そして、一緒に過ごした理由。何もかも真田は盤へ告げたことがなかった。

盤自身、真田に嫌われていないことは判っているだろう。普通なら女性でもなく、それ故抱くのに手間もかかる盤をどうこうしたいとは思わない。触れる時はいつでも優しくしているつもりだったし、戯れが癖になってしまった―――盤自身はいつも嫌そうな顔をしながら受け入れてくれた―――頭を撫でる行為は、している真田に温かさを与えた。

「石井」
「やる気削ぎたくないと思っとったとなら、余計なお世話たい」

突き放す様な口調のくせに、盤は決して真田を責めてはいない。確かに、自分を目指してここまで来たと言って憚らなかったから気は抜けたかもしれないが、それで今までの全てを無駄にする程盤は間抜けではない。
検定で、どうやら彼自身では思う様に身体能力が伸びないことが腹立たしかった様だが、もし知らせていたとしてもそれが変わる訳では無かっただろうし、思い上がりを承知で言えば、更に先へと進んだ真田自身を目指す気にでもなれば、落胆はどうとでも誤魔化せたと思える。ただそれよりも、真田に悪気は欠片もなかったのだと盤自身が判っていても、一言も真田自身が異動を盤に漏らしたことのなかった事実に怒っているのだと思った。

「怒っているのか」

嫌味かもしれないと思いながら尋ねた科白に、見開かれた目が細まる。そこにあるものが怒りだった方がどれだけ良かったか、切なさと諦めが盤の瞳に浮かんでいた。
はっきりと横に首を振る青年の、薄く寒さの為に少し色の悪い唇から紡がれた言葉に衝撃を受ける。

「……思い上がったオイ自身に怒っとるかもしれんばい」

好きだとも何とも言ってくれはしない真田に、どこかで通じるものがあると思っていたからそれで良いと思っていた。けれど、今回の異動の件で本当にそれは盤の思い込みだったことを思い知らされた。気軽に会えなくなるにも関わらず、真田はそれを盤が他人から聞くまで知らせもしない。言葉は無くてもいいと思ったのは盤自身だったけれど、失意を覚えた。真田が特殊救難隊から居なくなることよりも、何も言ってくれなかった彼に、自分の存在の無さを知らされたことの方が、余程落胆を、むしろ寂しさを知らされた。そのつもりではなくても、存外に思い上がっていたのだろう。

そんなことを考えながら真田を見つめる盤に、自然、自嘲の笑みが浮かぶ。

「わざわざ呼び出したってことは、少しはオイのこと気に掛けてくれとうね」

それだけが慰めかもしれない。そう気持ちに整理を付けて吐き出した側の科白に、吐き出された側の顔が珍しく歪んだ。

「石井」

真田が盤を呼ぶ何度目かの声が酷く感情を持って響く。

「何とね、そげな顔されてもオイには判らんとよ」

切ないけれど仕方無い、瞳だけではなく端正な顔にそう訴えられている様な気がして真田は首を振った。それをどう取ったのか、盤は自嘲とは違う寂しい笑みを浮かべる。

関係を持ち始めてから何度も貴方は判らないと盤に告げられる度、真田も言葉を増やす様にはしたけれど、結局こう言う時にまでその言葉を言わせている。自分のことを気に掛けてくれているのだと、盤のその科白が耳に痛過ぎた。責める訳でもないそれは、違う、とそれだけを真田に口に出させた。

「隊長さんらしくないばい、無理はせんでよかね」

何でもない声音に突き放された感は否めない。

「無理などしていない」

本音と受け取っていないのか、盤はそれを聞いていないかの様に首を傾げると一瞬だけ空を見て、そう言えば、と口を開いた。

「隊長さんの用事はなんやったと?改めて異動を教えてくれると?」

妙に律儀な真田のことで、もしかしたら盤が知っていても自分の口から言おうと思っているのかもしれない。そう思った盤に真田から予想もしていなかった言葉が返された。

「連絡先を」
「……何やって?」

夕日のオレンジは消え始め、濃い藤色をあっと言う間に越えて薄闇へと変わる。判別の付き難くなった表情を捉え様と、真田は数メートル離れていた距離を縮めた。少し後退りする素振りの盤を、腕を掴んで引き寄せる。

「異動をお前に言いたかった、それは確かだ」

だがそれだけではない。盤から色々話されて、自分の不甲斐無さを知らされ、その上こんなことを言ってもいいものか迷いながらそれでも真田の気持ちとして、言わずにはいられない。

「隊長―――?」
「向こうでの住所が決まったら教えたいから、お前の連絡先が知りたい」

考えてみれば携帯の番号すら履歴頼みで、真田は盤のメールのアドレスすら知らなかった。いつもどうやって会っていたのか、今思えば疑問にもなる。多分、それだけ真田自身、盤に甘えて、傷付けていた。以心伝心だと考えている訳ではない、巧みに言語を操る種として一番早い伝達方法で、仕事上ハンドサインを使うこともあるが、声の掛け合いは大切なものだ。
だが、判り難いとは何度も言われ、その度に悪いとは謝っても、盤が言った、所謂肝心なことを口にした覚えは無かった。おそらく真田自身が気付かないところで、言わずとも通じるとの思い上がりがあったのだろう。諦観しきった様な切ない眼差しと、連絡先をと言った真田への驚きの表情がそれを現前と示している。

「――――――連絡くれると?」

短い沈黙の後まるで信じていない声音が痛く真田の耳朶を打つ。

「迷惑ならしない」

口調は言い切っているのに、その実尋ねている、相手に了承を求めている己の科白に掴んだ腕が震えた。

「や、迷惑なわけ……て言うかなして今になってそげんこつ……っ」

結局自分はどうでもいいのだと結論付けた矢先に、連絡をしたいなどと優し気なことを言われ、だが真田が嘘を言う性格ではないと知っている。他の人物に今頃気持ちを寄せているようなことを言われたらその頬を殴るくらいはしているが、相手が相手で、殴る手よりも戸惑いが大きく先に立つ。

「迷惑か」

戸惑う盤に、真田にしては珍しく性急に応答を求める。首肯しないでくれ、と言葉の端が盤に訴えていた。

「隊長」
「迷惑ならしない」

今まで傷つけて来て、盤の諦めを知って、至らなさを知ると同時に彼の中で完全に決着が付いていることならこれ以上掘り返すことは出来ない。

「お前の中で終わっていることなら、俺は―――」

そこまで言った真田の頬が不意に熱くなった。瞬間には意識していなかった軽い音に、手加減して頬を張られたのだと知り、自分より背の低い盤を見下ろすと下唇を噛み締めている。紛れもない怒りが端正な顔全体に広がっていた。

「石井」
「―――なしてそんな言い方しか出来んとね、人のこつ何と思っとうね……っ」
「石井?」

突然の、少し大きめなそれに戸惑うような真田とは対照的に、盤は詰問の声を上げる。

「オイがショック受けとうことも判っとうやね」

珍しくきつい眼差しは暗闇でもよく見える、腕を振り払われないのが不思議なくらいだと冷静な自分が他人事の様に感じていた。沈黙を許さない瞳に真田は頷く。

「済まない話だが、ついさっき判った」
「それなら何で判らんと」

明らかに苛立っている口調の理由が真田には判らず、だが黙っていては何も伝えられない。少しでも信じてもらえるように、盤と視線を合わせた。

「……お前が、何も言わない俺を諦める、……心底愛想を付かしたなら俺はどうすることも出来ない」

だが、視線を外しこそしないものの、まるで真田の弁解など耳に入っていないかの様に盤は首を横に振る。

「なして」

声音は怒りを含んでいたが、表情は既に泣き出しそうな程、それを堪える様に前髪に隠れた眉間に濃く皺が寄っていた。いっそ泣けばいいのに、そう思うほどに酷く嗜虐心に駆られる。

「盤」

滅多に呼ばない名に一際大きく腕が震える。顔を俯けて何度も何度も首を振って、掴まれていない方の手で、真田の二の腕を強く掴んだ。それなりに握力のある人間にそんなことをされれば勿論真田も痛みを感じるが、これは甘受すべきものであり。
どうして、なのか、違う、なのか。首を振る理由に多分どちらも含まれている。

「なしてそうなる……?」
「……盤?」

二人きりでも数える程しか呼ばれたことの無い自分の名に、盤は込み上げて来ていた衝動を吐き出さずにはいられない。

「――――――オイがショックやったのは隊長ば好いとうからに決まっとう……っ」

どうしてそれが判らんとね。

絞り出すように紡がれた小さな声は叫びに等しかった。好きでなければ、相手にとって己がどう言う存在であれ無関係で、どうでもいい。最初は憧れと目標で今もそうではあるけれど、それだけなら、自分の思い込みだと解釈した時に胸の痛みと諦めを覚えることも無かったし、真田を手の甲で叩くこともなかった。
真田さん、と漏れた判ってくれと請う様なそれが聞こえたのか、真田は自分の肩口に埋められた頭に、盤の腕を掴んでいた方の手を伸ばす。

「―――俺も、お前が好きだ」

ゆっくりと優しく髪を梳きながら熱の篭った声が、盤の耳へ吸い込まれる。信じてくれたのかそうではないのか、何の反応も無い盤に、その顔を覗き込みたくなるが、無理強いは出来ずに性急過ぎた先刻とは逆に、じれったい気持ちを抑えながら頭を撫でる手の速度は変えない。長い様で短い沈黙は、だが決して痛くはなく、やがて俯いて顔を真田に押し付けたまま盤が口を開いた。

「やったらなして、迷惑言われても連絡したいて言わんと」

くぐもってはいるがそれは真田の着衣や盤が首に巻いているマフラーの所為で、泣いている訳ではない、そのことにほっとして真田は頬を緩ませる。両腕で、痛みを感じない程度に強く盤を抱き締めた。

「お前が嫌がることはしたくない」

大切なことや、誰よりも先に告げておくべきだったことを言わなかったことを謝るより、同じ回数恋情を告げた方が、どれだけ大事に思っているかを繰り返した方が盤は喜ぶのかもしれない。そう考えて、悪かったとの謝罪は後にした。

「杞憂ばい……」

軽く笑いの伝わる科白に、真田は俯いていた盤を上向かせる。暗闇に慣れた目にはどこからか来る街灯の僅かな明かりでも表情を見て取れた。眼鏡越しの瞳が、やはり泣いていないことに再度安堵する。安堵しながら、もっと早く、もったいぶる様に口を閉ざしていないで、むしろ関係を始める時にきちんと伝えておくべきだったと後悔の念が押し寄せる。
だが、過去を悔やんでも過去は変わらない。離れなければならない今、ようやく互いの気持ちを疎通させる等、どうにも笑い話の様である。

「それは嬉しい」
「嬉しか?」
「―――良かった」

それでも、このまま離れるよりは随分と良い話だと、真田ははっきりと判る笑みを浮かべた。















今週マガジンでも真田さんがどこへ行かれるのか判らず……国内外だけでも知りたく……
!!
ようやく甘くなりました。


05/07/13




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