「ちょっ……ストップ……っ」

一人暮らしのくせに無駄に広いベッドは、持ち主の寝相が悪い訳ではなくて寝室のスペースに合わせると丁度良かったかららしい。それを盤が訊いたのは一番最初、嶋本と訪れた時のことだ。真田らしい返答に、以前彼女がいた時にでも買ったのだろうかと一瞬でも考えたことが馬鹿らしくなったが、まさかそのベッドで盤自身がどうこうされる関係になるとは思っていなかった。

「今日用事でもあるのか」

冷静に、しかも用事など無くて非番だと言うことも知っている上での発言は小憎らしい以外の何物でも無いが、盤はそれを口に出来る状態ではなかった。一度身体を重ねてそのまま眠りに落ち、不意に目が覚めたのが運のつきとでも言えばいいのか。ジーンズだけを穿いて水滴の付いたグラスを持つ真田に気が付いた。真田さん、と呼んだ声が少し掠れていることに気付いてグラスを片手にベッドへ戻って来る名前の持ち主を、曰く縋る様な瞳で見上げたのが悪かったのだと言われたとしても、それは盤の責任ではなくて二人の共同作業の結果で。

「ん……あっ」

火傷とそこ以外との境目を背後から舌でなぞられながら、枕に顔を半分埋めてシーツを握り締めている盤の左手に真田の手が重ねられる。あらぬ所を探って来る空いた方の手指に数時間前の情交が思い出され、否応無く欲求を再燃させられた。それでも、これ以上されると今日の午前中は潰れてしまう。盤自身特にしたいことがある訳でも、元の職場から真田のマンションと正反対にある自宅に戻る用事がある訳でも無かったが、そうそう無い休日を潰してしまうのは癪で、顔を覗きこんでくる真田の顔を片目で睨み付けた。
空から降りて来た真田を追って来た昔なら到底ありえない話だが、これが過ぎた歳月と言うのは大仰かもしれない。

「それは逆効果だ」
「……何と?」
「この状態で睨まれても煽られるだけだな」
「……っ」

染まる頬を自覚して、性欲なんてなさそうなストイックな顔をして、言うことは言う人だったと要らぬことを思い出す。そのギャップが結構好きな自分自身がいることを盤も知っているからどうしようもない。
盤、と低く、だが素っ気無くも聞こえる声にはどんな場面であっても逆らえないことも、真田がそれを判っていることも知っている。

どうにも性質が悪い。
それでも流されて行くことに嫌悪を抱かない。左手の甲に重ねられている真田の手を、手首を捻って指先だけ絡めるとくすりと笑った気配がした。










「なして尊敬しとったとね」

尊敬していることを後悔しているわけでは勿論ない。

予定睡眠時間オーバー、午後一時間程回ってから目覚めた盤の鼻孔に、開いた寝室の
扉から食欲をそそる匂いが漂ってくる。風呂上りに脱ぎ捨てていた黒いジーンズは畳まれ
てベッドの端に置いてあり、素顔のまま、それと同じ様に畳まれていたシャツに腕を通し
た。そう言えば初めてそれを見た時には顔に揃って几帳面な人だと思った記憶がある。
昼の光りが差し込むリビングで二つ焼かれた目玉焼きを突きながらぽつりと漏らすと、
何がだと視線で促された。

「オイ、真田さんに憧れて羽田に来たとよ。覚えてなかろーもんがね」

責める訳でも無い声に、今は覚えているときっちり訂正する真田の理由はこういう関係に
なって、少しでも盤が真田の印象に残る様になったからだろう。そう思うと腹が立つが、ど
うしようもない。記憶に残らない程のことなのだと思い知らされるのは辛いし、兵悟のこと
は覚えていたことに、兵悟に対して敵愾心と劣等感を覚えた。西海橋では兵悟の方が助
けられたようなものだと聞いて、安堵した自分にも腹が立った。

自分ではどうしようもないし、真田に悪気がある訳ではないと
判っていても、こればかりはどうしようもない。

ただ、今現在バディの兵悟との口喧嘩や夕飯を一緒に食べることにすら嫉妬してくれて
いると知って、妙な嬉しさと可笑しさを感じてはいる。それまで憧れて、追いかけていた自
分の気持ちはどうなるんだとの憤りを覚えたものの、それを突き抜けて仕方が無いかと納
得してしまえばそれで終わりだった。

真田が自分の物になったとは盤とて到底思わないが、真田の気持ちが
自分に向けられていることは嬉しい。

「仕事以外でも結構人間味あったとね、本当知らんかったばい」

機微の判らない人だと思ったことは無いが、誰かを羨望するとか、嫉妬するとか、そう言っ
た至極人間らしい感情とは無縁に思える態だったから、盤の様に自分からアピールするこ
となど無いと思っていたのに、実際男の盤に惚れて同意とは言え散々身体を好きにしてく
れる。

「……お前は俺を何だと思っている」

ご飯の上に目玉焼きを乗せてから醤油を掛ける、黄味が固まっていても半熟状態でも
それは変わらない。モデルにしたい程の箸使いを止めて、真田は呆れた様に溜め息を
吐いた。

「一も二も、三と四が無くて五もお仕事」

ふざけた口調で歌った後、不意に真面目な顔になった。眼鏡は掛けなくても良い程度の
視力で、半分お洒落なのだと笑う。初めて真田が、何の隔たりもなくその黒い瞳と茶色の
虹彩を見たのは競技会の時のはずだが、記憶には無い。
今は黒縁眼鏡を奪い取ってでも見ていたいその瞳は、真田の視線と絡まっている。

「ずっと憧れとったばい、尊敬もしとるとね」

今もそうなのだ、と告げて照れたのか視線を逸らすと盤は箸を動かした。返事は期待して
おらず、ただ言いたかっただけなのだが、真田は口を開く。

「そうか」

確かに笑った顔を横目ではっきりと見てしまい、綻んだ端正な顔に目を奪われる盤に
追い討ちが掛けられた。

「俺は好きだぞ」

何でもないことの様にさらりと言って緑茶に手を伸ばす男とは対照的に、取り繕いようも
なく盤の顔は赤くなってしまっている。滅多に好きだなどとは言わないのに―――大体に
してこの関係の始まりの時でさえそんなことは言われなかった―――不意打ちで齎される
告白は心臓に悪い。嬉しいことは確かだが、今まで女の子に好きだと言われてもこうまで
鼓動が早くなったりしなかった分、真田にはあらゆる意味で調子を狂わされる。
意志の疎通すら難しかった頃然り。

そんな盤を見て真田が楽しんでいるのだと気が付いたのはいつだっただろうか。そう思うと
お茶目な部分もあるのだろう、本当に見ているだけと実際の姿のギャップの激しい男なの
だが、そう言うところも全部含め。

「オイも好いとうよ」

日が差し込む窓の方へ目を向けながら、食べ物の合間に小さく呟いた言葉は聞こえて
いたのだろう。数時間前と同じく、くすりと笑う気配がした。















眼鏡の度数、どのくらいなんでしょうか。あんまり悪いと水中で困るような……普通の
ゴーグルだと度数入りのもありますけどレスキューさんのってどのような。

05/07/05

05/07/06
微修正




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