>>your name 「くしゅんっ」 「おい、大丈夫か」 玄関口、背筋を走った寒気に、吐いて出そうになったくしゃみを抑えた、その代わりの様なタイミングに、ハボックと同じくタオルを頭から被ったヒューズは、金色の前髪と白いタオルの間から見える、いつもより白い顔を覗き込んだ。互いに身に纏っている軍服は濃い色へと染まり、その防水能力を越えた雨脚のお蔭で水を滴らせ、足元に水溜りを作っている。この季節に夕立とは珍しく、建物の中にでもいれば暢気に眺めていられるが、空の下、振られた立場としては運の悪さを諦めるしかない。 手を伸ばして、タオルを掴んでいる青白い手に触れると、想像以上に冷たかった。 「大丈夫ですよ。それより中佐こそ、先にバスルーム使って下さい」 温まった方が良いですよね、と勧める形を取りながら、湯を張る為にかバスルームへ向かうハボックの軍靴が、廊下と擦れて耳障りな音を立てる。部屋の中が、特別冷えている訳ではないが、暖房器具を付けるには早い今の時期、放っておけば風邪を引く。勧められたヒューズ自身より、お前が先だと口を開こうにも、ハボックと押し問答になることは目に見えている。 さて、それならばどうするべきか。ヒューズは水滴で見え難くなった眼鏡を、通り過ぎ様にリビングの机に置いて、水音の立ち始めたバスルームへ向かった。 「で、どうしてこうなるんですか」 「譲歩しただろ」 「そうですけど」 先に入って下さいって言ったのに、と再三の眼差しをヒューズは浴槽の中から見上げた。シャワーを出してはいるが、そう広くも無いバスルームでは声を大きくする必要は無い。タイル張りの上に小さめのすのこを敷いている為、冷たくは無い床に膝を着いて、熱い湯を浴びているハボックの目が眇められる。金髪の上で模様を作っている泡が、清涼感のある匂いを漂わせていた。髪も洗いますからと、少し素っ気無い声音には、少しでも長くヒューズを湯の中へ留めさせる意が隠れている。 「風邪引く程繊細じゃありませんよ、俺は」 「俺もな。ついでに、プライベートに階級は無し」 ハボックが自分を案じてくれていることと同じ様に、ヒューズもそうであるのだと暗に告げる科白を察したのだろう、口を噤んだハボックの頬は、身体が温まって来たのか、青白さを消してほんのり赤く染まり始めていた。タオルで髪を拭いていた、血管が浮き出る程に白い手は健康的な色を取り戻している。ありがとうございます、と呟いて、スポンジにソープを泡立て始める横顔は、どこか緩んでいる様にも見えた。謝辞を率直に口に出来るところなど、本当に素直だと思いながら、軽く目を伏せ、冷えていた身体に丁度良い温度の熱さと、流れ続けるシャワーの水音に感覚を澄ませる。 「呼称は階級ですけどね」 「お前のそれは、ロイと同じだろう」 少し意地悪気な口調で喋るハボックに、それが好きだとヒューズが告げれば、蒼い瞳が大きく変わった。 「どう言う意味です」 「言って欲しいか」 「―――結構です」 判っているだろうに確認したいのか、とお返しに意地悪く口角を上げると、横目でヒューズを見ていた視線が水を流し続けるシャワーヘッドへと落ちる。貴方は、との言いを途中で止め、ハボックは自分で軽く首を振り口を噤んだ。そのまま、何でも無いです、と出されなかった科白の先を考えながらヒューズは―――今度は身体についた泡を―――洗い流すハボックの背を見遣る。まじまじと見ることなどそう多くはないが、泡が流れ落ち、露わになった白い肩を妙に愛おしく感じた。 あからさまな視線に気付いたのか、蒼い双眸が振り向いて首を傾ぐ。 「何か」 「ん―――秘密」 額に張り付いた前髪を掻き揚げて口元を上げたヒューズをどう思ったものか、それ以上は追究せずにハボックは肩を竦める。中佐の番ですけど、と、言いながら浴槽の縁に手をついて、少し迷う素振りを見せた後、照れた様な表情を見せた。 「髪、洗っても良いですか」 「―――別に構わないが、それだと意味が無いだろう」 もう一度ハボック自身の髪を洗いたいと言う意味に取りそうな所を修正して、ヒューズは頷く意を返したものの、ヒューズの髪を洗うと言うことは、おそらくハボックはヒューズに浴槽の外側へ背を向けさせるつもりなのだろう。つまり、浴槽に浸からないと言うことになる。シャワーでようやく温まったにも関わらず、身体が冷えてしまえば本末転倒極まりない。 だが、水気でいつもより濃さを増した髪を指全体で梳くと、残念そうな表情が、それでも間違いなく緩む。普段の、氷にも似た冷淡さすら感じられる相貌とこの違いは反則に近いと思いながら、先刻一緒に風呂へ入ることへ譲歩してくれた事実へ、同じ物を返そうと思う自身は否めない。 「中に入れ」 言って腕を引くと、普段は蒼い眼差しに喜色が浮かんだ。 背を向けてスペースを開けたヒューズに、洗髪料のボトルを引き寄せてハボックは熱い湯へ足を浸し始める。二人足を伸ばして入るには狭いが、ハボックが浴槽の床に膝を着いている為、身体が当たることは無い。目を閉じていて下さいとの言いに、素直に従うと、出しっ放しだったシャワーが手桶に水を溜める音を立てて、ついで止まる音が聞こえる。浴槽に張られたものよりは温めの水が、雨とバスルームの湿気で崩れ始めた黒髪に緩く掛けられた。 「いつも俺の髪触るでしょ、気持ち良いんです」 手に掬った洗髪料をヒューズの髪全体に伸ばしながら、ハボックが笑う。 「でも、俺が中佐にそれをすると不敬ですしね」 「俺も想像がつき難いな」 「でしょう、あ、目に入りますから閉じてて下さいって」 髪を泡立てられ梳いて行く、頭皮に当たる十指の腹が気持ち良い。確かに普段は逆だと思いながら、ふと首を反らしてハボックの顔を逆さまに見たヒューズの髪が、胸に当たったのか、擽ったそうな声音で注意が飛んだ。理髪店以外で、誰かに髪を洗ってもらった覚えに乏しいヒューズとしては、気を緩ませて、髪を洗われる心地良さは初めてと言っても過言では無い。赤子の頃はともかく、己の行動を記憶に留められる時期には、生活環境もあって何でも己のことは自分でやる身体になっていた。それを寂しいと思ったことは無いし、今も残念だとは思わない。それよりも、今の感覚の方が余程大切だった。ハボックだからなのかどうかは判らないものの、存外な程の心地良さは、やはり相手によるものだろうと思う。 「痛いところとか、痒いところありますか」 「いや」 「あ、首の辺り触りますね」 裸の状態で、そもそも確認することこそ今更の関係でありながら、急所に触られることを厭うかもしれぬ、との断りにヒューズは苦笑した。迷う素振りはこれだったのか、と思えば、気の遣い所は嬉しい。視覚を閉ざせば、他の感覚が秀でて来る。軽く引き寄せられた頭が、ハボックの胸板に当たり、今度はやんわりと生え際沿いに指が這って行く。上手いものだと思うヒューズの首を、ハボックは少し上向けた。興味深そうに、髪が一房取られる。 「中佐、少し銀色入ってますよね」 「光の加減でそう見えるらしいな」 「綺麗で、好きですよ」 小さな呟きと共に、一瞬だけ額に温かな物を感じた。 「―――ハボック」 「このまま髪と目の周り、軽く流しますから」 ヒューズの科白を遮る様に、ハボックはシャワーを流し始めると、浴槽の中で大雑把に泡を流す。どこか照れの見える声音に可愛さを覚えながら、頭を流れる湯に感覚を委ねた。髪の泡を流すと、ハボックは更に、指に水を数滴乗せ、上向けた目の周りを軽くなぞって行く。ヒューズには泡の感覚は無かったものの、念の為なのだろう。片目ずつ眼球まで押さえない様に肌を辿る手はどこまでも優しい。片目を終え、もう片方へと頬骨に伸びた手が不意に止まった。 「さっきのですけど」 小さな声でもタイル張りのバスルームでは反響し易い。拭われた側の目を開けて、逆さに顔を見るヒューズに気付いて、ハボックの唇が弧を描いた。止まっていた指が動き出し、片手が開いている側のヒューズの瞼を再度閉じさせる。 「もし、大佐と貴方が同じ階級でも、俺は貴方を大佐と呼びます」 「―――理由を聞こうか」 友人の下に付くと決めたヒューズが、ロイと同じ位に着くことはない。しかし、仮定の話であっても、それは虚では無い。 「貴方は貴方ですから」 「紛らわしくないか」 試す口調で口を開けば、伏せた瞼の向こうで、もう片方の目の周りを拭うハボックの、首を振る気配がした。 「貴方は聞き間違えませんから―――自惚れですけど」 呼ぶ相手を聞き間違えたりはしない、それくらい、ヒューズはハボックを判ってくれている。都合の良いとも取れる、その根拠の無い信頼がヒューズには、くすぐったいほどに嬉しさを覚えさせた。 有事の場合はともかくとして、普段の日常で―――おそらく極限に切羽詰った状況で、慣れた呼称が一番出安い状態でも―――ハボックはヒューズを階級で呼ぶ。それは、頭を垂れたロイへ対しても同じだった。階級が、その人物のみを指し示す。ファミリーネームを付けて呼ぶことが面倒であるだとか、どの階級の人間も同じであるからと十把一からげにしまっている訳では無い。ロイやヒューズを除いた佐官にはハボックはきちんと名を付けて呼んでいる。名を付けて呼ぶことではなく、その逆が特別なのだと判らないはずが無い。 最初、ヒューズがハボックに出会った時から、互いに抱いていた想いが交わるまで―――明らかに、名を付けずとも会話が通じる時以外は―――ヒューズ自身、名前付きで呼ばれていた事実がある。否、ヒューズに対する常識的な範囲での警戒が緩むにつれ、名も取れたり付けられたりしていた。そして、ヒューズは逆に、以前ハボックを階級付きで呼んでいた過去があり。 周囲からみてもヒューズ自身が考えても、関係を持ち始めた先と後の明確な違いはそれだけである。その、差異など無いに近いものが、温かく思えた。 良いですよ、と首を起こされ、瞼を開けたヒューズの目が、バスルームの灯りで一瞬眩む。僅かに泡が残って滑りの良い髪を掻き揚げ振り向くと、気恥ずかしげに視線が反れた。立ち上がりかけた身体の腕を引いて湯に沈ませる。ハボックが手に持っていたシャワーヘッドを浴槽内へと落とし、ヒューズは自分の背を浴槽の端へ付けると、湯に沈んでいる腰を腕と共に引き寄せた。 「そうだな」 確かに、大佐である友人と同じ階級であったとしても、ヒューズがハボックの呼ぶ声を聞き間違えることは無いだろう。根拠は無い、根拠は無いが物事全てが確証に基づいて動いている訳ではない。目に見えぬものこそ、大切にしたいこともある。 「はい?」 圧し掛かり、半分ヒューズの足を跨ぐ様な体勢を取らされ、不安定な身体を持て余しながら、それでもヒューズに寄り掛かろうとはしない。これに関しては気を遣う所がずれていると小さく笑ったことに気付いたのか、不思議そうな反面戸惑った表情のハボックの手を、ヒューズは自分の肩に乗せる。見上げた先の蒼い視線に自分の物を絡めて覗く。 「俺は、お前に階級で呼ばれると嬉しい」 ファミリーネームのみで、ファーストネームで呼んで欲しいと思ったことが無かった。それは自然な程、階級のみの呼称に慣らされていたこともあるのだろうが、ハボックにとっての、階級のみで相手を呼ぶことの意味を、知っていたからでもある。そして、ロイを大佐と呼ぶ時とは別種の温かみが、己の階級には込められている。 笑みを作って頤を取ると、戸惑っていた面が、気恥ずかしげながらも相好を崩した。 「中佐は、貴方だけです」 取られた頤をそのままに、ハボックの手がヒューズの頬へと伸びる。軽い音を立てて口付けた後、すぐに離れて行こうとする身を留め、ヒューズは頤へ当てていた手を後頭部へ回して少々強引に引き寄せると、露わになっている額へ唇を落とした。 「―――っ」 「悪いな」 恥ずかしさを覚えていたらしいハボックに、先刻は流されてみたものの、やはりその時も赤くなっていた顔が見れなかったことが惜しい。 「そう思うなら、そのまま流して下さい」 唇へ口付けるより、裸で浴槽内で身体を接触させているより、子どもにする様な額への口付けで赤くなる、妖艶とはほど遠い、ある意味純粋な表情が、白い肩より尚可愛いものだと知らされる。白から部分的に薄紅へと染まる頬を、ヒューズは両手で挟み込む。少し拗ねた態を見せる眼差しを宥める様に、頬に当てている指を軽く動かすと、仕方ないと言った風に、ヒューズの肩に置いていた―――正確には置かされていた―――ハボックの手が、もう片方の手を伴い、ゆるりと首へ回された。 「ハボック」 「何か」 「お前は、何て呼ばれたい」 きょとん、とした顔が少しの間、思案の素振りを見せる。 「そうですね。―――俺は結構単純ですから、貴方が呼んでくれるなら何でも嬉しいです」 ですので、お気になさらず、と、相好を崩す。そう言い切った真っ直ぐな瞳は、きっとハボックも、ヒューズが階級を持つ相手に対しては、そうそう階級抜きで呼ばないことを知っている。否、知らずとも、同じことを言うのだろうと思う。ハボックの、遠慮がちに、それでも先程よりは大目にヒューズへ掛けられた重みに笑って、見遣った先の、少し恥ずかしげな表情とにこりと笑んだ珊瑚色の唇から、目が離せないことに気付いた。 済ませた耳に、未だ止まぬ夕立の音が響く。ふと、気紛れな雨が上がるまでは、このままでも構わないかと思い付き、ヒューズは口付けの合間に、軍人にしては薄い身体へ手を回した。 >>end 体勢は一人前。 (06/09/21) |