>>戯れる

疲労の為なのか、預けられる身がいつもより重く、細い。

「結構良くなったな」

左耳の後ろ辺りに指三本分程あった、被れた様な炎症を起こしていた皮膚の具合が、三週間程前に見た時より大分良くなっている。目の前で金色の髪が揺れ、温かな吐息がヒューズの首筋を撫でた。眠りに落ちる前独特の、ゆるりとした声で、そうですか、と答えるハボックの瞼は既に閉じられているのだろう。邪魔に感じたのか、ブランケットを足で押して除けてしまっている。ヒューズの首筋に顔を埋める様な形になっている為分からないが、互いのバスローブの間で触れ合う肌は心地良かった。

「最近は市販ので―――」

ヒューズへと話し掛けるハボックの頭が首筋から胸の上へと移動する。合わせたバスローブの間に直接髪の当たる感触がくすぐったい。何だ、と訊ねたヒューズに返って来た寝息に小さく笑って、ヒューズは自身には訪れぬ眠気の対処に眉根を寄せながら、ベッドヘッドの横にある古いランプに照らされて輝く橙色の髪を梳いた。





書類を処理している最中、隣からの視線に顔を上げる。視線で何なのかと問うと、どうしたんだそれ、と顔を顰めて訊ねてきた友人に、ハボックは首を傾げた。紙の上を滑らせていたペンを止め、インクが垂れ零れ無い様に、脇へと手をずらす。

「それって、何が」

何のことか、と聞き返したハボックにブレダは己の首筋を指差した。被れてるみたいに見える、との台詞にハボックは同じ様に自分の首筋を触る。丁度指が三本分、全て当たる位の範囲で、他とは違う感触の皮膚に目を瞬かせた。

「そう酷く見えるか」
「お前、色白い分結構目立つぞ。気付かなかったのか」
「いや、少し痒いと思っていただけだったんだが」

直接鏡で見ようとも思わなかったので、顔を顰められる程酷いとは知らなかったと言うと、ブレダが呆れた様に肩を竦めた。

「後で軍医に見てもらえよ」
「分かった、サンキュ」

元々は、少し爪で引っ掻いたのだと思う。直ぐに治る―――と言う表現を使うまでもない程に気にしていなかった―――と放っておいたのだが、知らない間に自分で傷を広げていたのかもしれない。掻かない様に意識しておかねば、と思いながら首筋に当てていた手を下ろして、僅かに目を細めた。



不意に、手を抑えられる。感じていた気配に驚きはしないものの、突然捕まれた手に振り返ると、深緑の瞳が器用に片眉だけを寄せて立っていた。資料室の、あまり明度の高くない照明の下でも、人の顔ははっきりと見える。ロイに渡された膨大な量の書類を分けて、即した資料を探す為に資料室の机を一つ占領している最中、物音一つ立てず現れた気配に、相手の顔が脳裡に浮かんだ。

「いらっしゃいませ」

また突然の出張なのだろう、既にそれが普通になっているヒューズがいつ現れようと、ロイを含めた側近に驚くものはいない。そのヒューズの手が、ハボックの首の後ろ辺りで掴んでいる左手をそのままに、視線を首筋へ向けた。

「ああ、元気そうだな。どうした、ここ」
「え、あ―――ちょっと」

珍しく挨拶もそこそこに、ヒューズが問う。どうやら知らぬ間に、また指を伸ばそうとしていたらしい。それ程痒みを感じる訳でも、高々これしきの傷が気になる訳でも無いのだが、何だか既に癖になっている様でもある。放してくれた左手に、小さな溜め息を吐いてハボックは苦笑した。

「塗り薬とか、塗った方が良いんじゃないか」

ブレダとは異なるが、対処としては同意のことを言うヒューズに、ハボックは頷く。礼を言ったハボックに対して、軍医にでも見てもらえ、と今度こそブレダと異口同音を口にしたヒューズに、参ったな、と口元を緩めた。

「実は、さっき貰って来たんですけど」

昼食の後、そう時間も掛からないだろうと見て訪れた医務室で、片手で握り込める程の丸いケースに塗り薬を貰っている。貰ったは良いが、つい塗る作業を失念していたのだから笑えない。案の定、ヒューズにそう告げると僅かに眉根を寄せた後、掌を差し出された。

「何ですか」

無言で差し出された手に、ゆっくりと瞼を上下させながら首を傾ぐハボックに、ヒューズは一言、薬と答える。何だろうか、と不思議に思いながら懐に入れていたケースを差し出すと、ヒューズを見上げていた頭を軽く叩かれた。

「前、向いていろ」
「え、あ―――いいですよ、自分でしますから」

ようやく意図に気が付いて、その手の平のケースを取り戻そうとしたハボックを、ヒューズが後ろから椅子越しに片手で抱き締める。

「忘れてただろうが」

耳元で低い声が言う。腕を振りほどこうと身を捩るハボックを制する様に更に力を込めるヒューズの手元で、きい、とケースの蓋が回される音がした。

「今から塗りますから、返して下さい」

直ぐ横にあるヒューズの顔を横目で見ながら、諦め半分でそう言うと、小さく笑いが零れた。

「今度からすぐに塗るんだな」

結構酷い、と言うヒューズの声音には間違い無く案ずる色が見える。そう言われると返す言葉が無かった。実の所、軍医にも―――引っ掻き傷からにしてもそうでなくとも―――酷いとまで言われた状態を知らなかった自分に呆れるが、案じてくれる相手がいると言うのはどこか温かい。尤も、大怪我でも仕事で負った傷でも無いからこそ、そう感じられるのだろうけれども、だから尚更に遠慮なく温かいと思える。

「そうします」

温かいとは思えるが、実の所案じられることが苦手と言うか申し訳ないハボックにとって、こんな小さなこと等、否小さくなくともであるが、早急に対処した方が良かった。ブレダに案じられたとてそう思わないのは、相手が気の置けない友人と言う立場だからだ。ヒューズは、悪い意味では無く、違う。友情と恋情の二つは違えど、二つ共大切なものに変わりは無い、そう言った違いだから、少し笑える。

「透明なマロンクリームみたいな色ですね」

目の端に入ったケースの中の色に感想を漏らしたハボックに答える代わりに、ヒューズは開けたケースの蓋を、器用にケースと共に片手で持つ。ハボックを抱き込んでいる手の、人差し指と中指に固いクリーム状の薬を付けると、腕を回したまま首筋へ指を当てた。思いの外冷たい感覚に、ハボックは僅かに眉間に力を込めるが、ヒューズは意に介すこと無く塗布し始める。

「結構範囲が広いな」
「自分で見えない位置でしたし、意識する程痒みも痛みも無かったんで気付かなかったんです」

鏡で真正面から見ただけでは見えぬ位置、尤も三面鏡なら見えただろうが、ハボックの家にそれは無い。確かに広範囲なのか、二度三度とケースへ指を付け、丁寧に塗り込むヒューズの指の感触の温かさに、ハボックは自然に瞼を下ろした。

「意外な所で鈍い」
「お手数お掛けします」

低く笑いながらも指の動きは変わらずゆっくりと首筋の辺りで上下する。直接見なくとも、皮膚の感触の違いで分かるのだろう、ヒューズの声はずっとハボックの右横から聞えていた。落ち着いた声と、その感覚に意識を取られながら、咎めるでない、揶揄する様な声音に同じ調子で答えたハボックへ、ヒューズは一拍置いて首筋から指を離すと、手早く閉めたケースをその懐へ返す。そのまま抱き締めていた腕を緩めてハボックを上から覗き込んだ。

「お前、眠たいのか」

離れた体温と動いた気配を感じて、ハボックが天井へと首を傾けると人好さ気な双眸が細まる。

「眠たくなるって言うか、貴方と触れてると気持ち良いって言うんですか」

温かい、気持ち良い。久し振りに会った早々に眠たそうな素振りを見せて悪いとは思いつつも、どうにも事実は事実である。このまま続けば確かに眠気に通じそうではあるが、現時点では決して眠たい訳では無いのだと断って、ハボックはヒューズへ謝罪した。

「そう言えば、今日は泊まられますか」
「今日から明後日までこっちだ」

逆さまのヒューズの顔が口角を上げる。それ以上何も言わないと言うことは、今日明日とハボックの家を宿とすると言うことに違いない。いつも唐突なのに、連絡の一つも欲しいと思ったことが無いのは、仕事だからと言うより、むしろヒューズに毒されて、慣らされていると言った方が正しいのだろう。更に言えば、それ等に悪い気はしていないハボック自身がいることも確かで、気分も良い。

「取り敢えず、残業しない様にこれ片付けますか」

至近距離にある深緑色へ小さく笑むと、掌で視界を塞がれる。

「執務室にいる。また、後でな」

軽く落とされていった口付けと、首を起こしたハボックの目に入った、こちらへ手を振るヒューズの背に頷く。思いがけない気分転換に高揚する気持ちに呆れながら、ハボックは目の前に広がる書類の山に手を掛けた。





伸ばした手で、ランプの灯りを落とすと、代わりに窓から差し込む月明かりで影が出来る。満月の夜ならば、それこそ外を歩く為の明かりは要らない。今はそれに近い形をした月の光と、それに因って作り出された窓枠の影のコントラストの映る手を、遮るガラスの無い目で何とは無しに見ていると、ハボックの手がヒューズの胸元の生地を握り込んだ。

ここの所、任されている仕事の関係で中々休めていなかったらしい。仕事なのだからと言ってしまえばそれまでだが、ヒューズ自身とて仕事だと分かっていても休めないのは堪える。部下の、他人の前でそれを見せる訳にも行かないのはハボックも同様で、通常と何一つ変わらぬ様で仕事を終えたのだから―――それを当然と取るか褒めるかはともかくとして―――自宅でまで、言ってみれば気を張る必要は無い。
普段、人に慣れぬ様子しか見せていないハボックが、自宅の寝室内と言うテリトリー内にいるとは言え、ヒューズの前で気を緩めてくれている事実は嬉しかった。

「しかし」

子どもの様に甘えてくる様は寝ている時だけのものであるし、その分可愛いとも思う反面、今、無駄に目が冴えてしまっているヒューズにとってみれば、少々困る部分もある。無防備な寝姿を、無性に抱き締めたくなるのだが、そうすると起こしてしまう可能性が高い。精々が、髪を梳いたり、やんわり背に手を回したりその程度が限度だった。一応も何も、情を通じている訳であるが、疲れて寝入った相手を起こす訳にはいかない。
半ば手持ち無沙汰の気分のまま、ヒューズは足元でわだかまっているブランケットを取ろうと、肘を支えにして軽く上半身を起こす。その最小限に抑えた動作に、ハボックの伏せられた瞼が動き、薄っすらと蒼い瞳を覗かせた。

「悪い、起こしたか」

ゆるりと動く瞼を止めて、ハボックが身を起こしながらヒューズを見上げる。色の混ざり合ったガラス玉の様な瞳が、透き通った蒼を浮かべると、ランプの隣に置いてある時計へ目を遣り、安堵した表情を浮かべて申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「済みません」
「いい、眠たいなら寝ていろ」

上体を起こしてベッドヘッドに背を預け、ハボックの肩を引き寄せる。首筋へ口付けながら言うと、擽ったそうに身を捩りながら首を振った。

「そう言う訳には」

先刻よりも明瞭な声は確かに四半時前とは違うが、やはり眠気を窺わせている。無理に起きなくていいと、口にしようとしたヒューズの先を制して、済みません、とハボックが謝った。

「起こして下さって良いんですけど」
「いや」

ゆるりとしたリズムで可笑しそうに問うてくる声に、ヒューズも笑みを含んだ声で否定を返すと、ハボックから伸ばされた腕がヒューズの背へと回る。ヒューズの上へ半分乗り上がりながらも感じられない体重を、要らぬ気遣いを取り払う様に体を抱き締めて預かった。ヒューズの片足を跨ぐ形で座り込ませたハボックが、背へ回していた手をその首へと変える。しばらくの間、頭を動かす素振りを見せていたハボックは外を見上げたのか、白い、と呟いた。

「散歩したら、気持ちいいかな」

丸っきり、幼い子どもが興味を持って喋っている様な物言いが、酷く頑是無い。

「外にでも出るか」

大きな声の独り言だと知っていてわざと答えながら布越しに背を撫でると、ハボックの額がヒューズの肩口へと摺り寄せられた。

「本気にしないで下さい―――ありがとうございます」

寝言です、と耳元で告げる声は楽しそうな中に、やはり眠気が見え隠れしている。
その声のまま、こうやっていても充分気持ち良い、と告げられて、そう言えば、三週間ほど前にも似た様なことを言われたと思い出した。ハボック曰く、触られていると気持ちが良いとは、ヒューズにしてみれば大した感想で、それは事実なのだろう、時に直接肌に触れてくることもある。眠気が増している時が最も顕著で、だからこそ眠っている時には、殊更直の温もりを求められることが多い。
職場では凍った瞳を見せる。それのみならず、甘えなどは職場だけではなく、二人だけの状態であっても自らはそう見せてくれぬ分、その甘えが愛おしい。夜になると人が変わる、と言う訳でも無いのだから、ヒューズ自身自惚れを自覚して言うならば、ハボックは気が抜けると人が変わると言ったところかもしれない。ヒューズ限定なのだろうとも思うが、訊ねたことは無かった。

「そうか―――そうだな、満月の時には、ロイも誘って月見でもするか」
「給仕が忙しそうですけど、良いですね」

月に示した興味を拾い上げての提案に、さして間を置かずに肯定が返る。まるで眠気を振り払う様だと感じて、おそらくそれは間違いでは無い。やはり、眠たいのだろう。
月明かりで白みを増した、ハボックのいつもより更に薄く月を溶かし込んだ髪を梳く。こちらを向いた蒼い双眸には僅かな艶が隠れている。せっかくだから底に覗いている艶を少し引き上げてみようかと思い、その頤と取ったものの、ヒューズはその手をハボックの後頭部へと滑らせた。

「明日は非番だろう、ゆっくり休め」
「結構です」
「いいから、寝てろ」
「貴方は起きていらっしゃるでしょ」

眠気に抵抗しながらの返答は遠慮が無い。これ以上押し問答を続けていれば、ハボックはその内眠ってしまうだろう。それが自覚出来ている分、ハボックはヒューズに頷けないでいる。気を遣わずに寝てしまっていいのだと言った所で、言い合いが続くだけなのだから、早々に折り合いを付けた方が賢明だと、ヒューズはハボックの瞳を覗き込んだ。

「一時間したら、起こしてやる」

ヒューズには先刻から一向に眠気が訪れる気配が無く、ハボックにしても、一時間後にも酷く眠そうであれば、改めて眠らせれば良い。尤も、ハボックは起きると定めた時間には目を覚ます為、本来なら起こしてやるなどと言わずとも良い。言ってみれば、これは口約束の様なものだった。
時計を見遣って起こす時間を告げると、逡巡を見せながらようやく頷き、首から外された手がヒューズの頬を引き寄せる。引き寄せられるままに、薄い唇を塞ぐと、いつもなら開かれたままの目がゆっくりと落ちた。















>>end

眠気と戯れる人と戯れる。ぺたりぺたりとよくする。

(07/01/30)

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