>>貴方も私の


「これで良いかな」

明日の朝食を皿に並べる。乾燥しない様に、軽く霧吹きを掛けて、清潔な布巾で覆って冷蔵庫へ入れた。先にこの邸宅へと戻って来たロイは、夕飯までしばらく目を休ませている。火に掛けた鍋を見ると、出来上がるまでまだ時間が掛かりそうで、取り合えず出来上がるまでにと、持参していた書類に目を通す。頭の端にある眠気を、慣れた感覚で追いやって字面を辿る内、ふと昔覚えた曲を口ずさんでいた。





他の資料室よりは作りの良い書架が床から天上まで伸びている。一般の資料室では、軽食や飲み物程度の持込は許されているが、この資料室では一切の飲食物は禁じられていた。その代わり資料室の向かい側に小さな休憩室がある。

お願いがあるんですけど。
資料室の隅にある机で書類を見ていた視線を止めて、返事を待つ事無く、ハボックは確認していたヒューズの書類を今までの束の上へと重ね、大きめに衣擦れの音を立てて席を立ち上がる。真向かいにいるヒューズが片付けている書類から、すい、と上げてくれた顔に、眉根を寄せた。

「中佐」

古い万年筆を放す事無く、笑う顔の目元には憔悴の色が滲んでいる。もっともそれに気付ける人間は少ない。少ないものの、要するにハボックは気付ける側にいた。つい先程まで目を落としていた書類の一番上には―――これで四枚目の―――妙に右上がりで文字の特徴が強くなったサインが、白い紙に軌跡を残している。読み辛いとまではいかないが、普段のサインを見ているものならば急いでいたのかと首を傾げるかもしれない。常のヒューズは、僅かに右上がりで基本的に癖の無い読み易い綴りで、読む立場としてはこれ以上無く良い手である。因みに、悪筆とまでは言わないが、ヒューズの友人であるロイは、非常に癖のある文字であり、名を変えてサインをしても丸判りな程だった。

先刻から、サインをする度に筆圧の高そうな音を立てるペンから生み出された書類を見ていたハボックが、本人の顔色と相まって席を立ったのは、注意する為では無く。

「少しで良いから、寝て下さい。よかったら、俺、起こしますから」

ここの所、仮眠ばかりでまともに寝ていないヒューズをハボックは知っている。東方へ出張に来る前からそう言った日々が続いていたらしく、それは二日前に書類を抱えてこちらを訪れた時からも変わっていない。今回はハボックの自宅ではなく、ロイの屋敷を宿代わりにしていた。ロイとヒューズを護衛したついでに、二度ほど夕飯と次の日の朝食を作ったものの、それを空にはしているが、ブランケットの放置された書類の散らばる一室では、まともに休んだ様子はみられない。
忙しいことは知っている。立場上、今の段階でハボックが出来ることが多くないことも理解している。短時間でいいから休んだらどうか、と気軽には言えない。けれどもやはり、ハボック相手とは言え普段の態度を保てなくなっている以上、多少なりとも休息を取ってもらいたかった。ただそれは、ヒューズが希望している訳でも無いのだから、お願いと言うより我侭と言った方が正しい。

「そうする」

ハボックの自嘲に気付いているのかいないのか。あっさりと、存外な程素直に頷くヒューズが、壁際に二つある革張りの長椅子へと目を遣った後、意味有り気にハボックを見上げる。

「何です」
「眠るまで、膝、貸してくれると嬉しいんだが」

眠った後は放っておいてくれて良いと付け足すヒューズに、一瞬、瞬きを止めそうになった瞼を大きく動かして、ハボックは逸らそうとした視線を深緑色の同じものに止められた。憔悴の色はどこへやら、一転揶揄する訳ではないにしても、愉しげな色が口元に浮かんでいる。

「俺なんかの」

女性の、柔らかい膝で、しかもそれが恋人だったりするからこそ、膝枕は気持ち良いものであって、どう考えても必要条件の二つは揃えられない上、もう一つの条件も半分くらいしか揃えられそうにないハボックの膝は、対象外に違いない。大体にして、一応禁帯出の資料室で、そうそう見られてはならない書類を広げている為に鍵をかけているとは言え、ここが軍部内であることに変わりは無い。だが、断りを口にしようとした寸前、見られないにしろ多少の抵抗感があると思っている時点で、ヒューズの頼みを了承している自分に気付いて、小さく溜め息を吐いた。ついでに言えば、ハボックから仮眠を取ってはどうか、と勧めたことも理由になっている。

「良いですけどね」

どの道ハボックの仕事は、ヒューズから書類が回ってこない限り進まない。ヒューズが休んでいる間は、コーヒーでも淹れるなり、他に入用の資料を探そうと思っていた程度であるから、仕事に支障が出る訳ではない。
立ち上がって、ハボックの腕を掴んで長椅子へと誘うヒューズの体温に、場違いな温かみを感じて頬が熱くなった。





「何か話しててくれないか」
「眠れないでしょ」
「その逆だな、お前の声はリズムが良い」

静か過ぎると今は落ち着かないと言う事もあるのか。リズムがいいなどと言われた所で、自分自身ではさっぱり判らないが悪い気分になる訳でも無い。しかし、何を話せばいいものか、と改めて考えると、仕事以外の話が思い浮かばない現実がある。趣味は仕事などとは言わないが、こう言う場合するりと話題が思い浮かばないのは困るものだと、おそらく初めて思う反面、ヒューズならば気の聞いた話題の一つや二つ、すぐに口に出せるのだろう。
性質と言うより、頭の回転の良さが違うのだろうと思うが、それに対して悪感情を抱く訳でも無い。その鋭敏さや機微さに助けられているのは正に自分だと言う自覚も理由の一端ではある。

困った様子のハボックを、閉じた目の裏で感じてくれたのか、そう言えば、と、話題を持ち出してくれたヒューズに見えないと知りながら小さく頭を下げた。

「お前、歌っていただろう」
「え、ああ、昨日のですか」

歌っていただろうと言われて思いつけるのは、つい昨日の夕飯時。鍋の中が煮え上がるまで、ハボックもハボックで今日の書類を片手にふと口ずさんでいた覚えがある。帰宅した直後であるにも関わらず、コーヒーを求めてキッチンを覗いたヒューズにはどうやら聞こえていたらしい。自分に聞こえる程度の小さな声で口ずさんでいた訳であり、ヒューズも何も言わなかったので聞こえていなかった、との判断は違っていた様である。

「あれ、讃美歌か」
「ええ。―――ああ言う曲って、信仰心云々以前に、優しいメロディが多いですよね」

覚えた経緯はよく覚えていない。小さい頃に聞かされていたのか、自然に耳に入る環境だったのか。何十とある曲のたった一つしか知らないが、なぜか曲番と全節を覚えている。

「それは同感だな。宗教の数だけ歌もある。―――この国は国教は無いが、宗教が無い訳じゃ無い。氾神と言う程でも無いが、新興宗教も多い。イシュヴァールは一神教だが」

ハボックが覚えている歌は、どこの神だったのか。それすらも知らないが、幼少期を東方で暮らしたことを考えれば、イシュヴァラを讃美する歌なのかもしれない。今でこそ、内戦を経て関係は際限無く悪化を辿っているが、ハボックがまだ小さかった頃は、個人個人の関係はそれほど悪くは無かった。だがそれは過去に過ぎなくなってしまっている。
ハボック自身は南方での紛争経験が主で、イシュヴァール戦を経験した訳では無いが、それは相手にしてみれば無関係だ。軍が、彼等に対して何をして、何をし続けているのか知っている。自己満足で陶酔しているだけと言われ様と、知っていて償うでなく軍属し続けている以上、彼等に対して責任を負わねばならない。誰に何と言われ様と、ハボックは、イシュヴァールの民が舐め続けている辛酸は、自分がしたことではないとは言えない。

「士官学校では、一通り宗教教義の説明は受けましたけど、諸国絡みが多かったですしね。―――俺が話しますから中佐は黙ってて下さいよ」

ハボックより多く喋っていては頭が冴えるばかりであり、事実ヒューズは眠気の片鱗も見せず話続けているが、これも睡眠導入の手前なのか。

「シンは皇帝が神を祀る、政教一致の国だが、錬丹術が発達しているだけあって、この国と同じで信仰心は薄いな―――悪い、その内眠くなる」
「皇帝が神様みたいなものなんでしょうね―――一時間で起こします」
「かもな」

そこで途切れた会話と共に、ゆっくりとヒューズの呼吸が深くなり始める。失礼しますね、と断って、ハボックは掛けっ放しの眼鏡を慎重に外して、自分の懐へ収めた。何とはなしに、晒された素顔の両瞼の上を片手で覆う。まるで泣き顔を隠す様だと、あまりヒューズからは想像出来ない行為を考える。むしろ、ハボックの顔をヒューズから隠している様だとも気付いた自分に苦笑した。
そっと、手を除けると、いくらも顔から離れない内に、ヒューズの手に因って引き戻される。
不意に、互いの口から漏れた笑い声に、柔らかくなる気持ちを感じていると、相変わらず眠気を感じさせないヒューズの声が、静寂の満ちた資料室に響いた。

「神は、見止めてくれる者」
「え?」

不思議そうな声音を出していたのだろう、露になっている口の端を上げてヒューズが答える。

「昔、俺が聞いた解釈の一つだ」

共に人生を歩む相手。指針を常に示す絶対者。命を賭して使えるべき存在。神にも解釈が違うのだろう、けれどもヒューズが聞いたのは、見止めてくれる者なのだと、安らいだ声と言う。

「一番怖いのは、俺らしい」

否、正確には俺達か。そう付け加える声音には殊更感情は浮かんでいない。紡がれる科白の脈絡は掴めないが、おそらく同じ人物がヒューズへ話した事なのだろう。その相手が誰だったのかなど知る由も無いが、ヒューズの友人だったのかもしれないと思う。

「信仰対象を持つ者にとって、信仰対象を持たぬ者は奇異に映り、何より恐ろしい」

引き戻されたまま、重なり合っていた手が離れて行く。腕を組んで、ヒューズは少しだけハボックの方へ身体の重心を傾けた。

「信仰対象があれば、その神の敷いた規範に基づいて生活や精神の有り様も判る。だが、信仰対象が無ければ、相手が何を規範に生きているのか判らない。だからか、そう訊いたが」

それは教えてくれなかった、と笑う。

単語の一つ一つを拾っても、特に信じるものを持たぬハボックには、その恐れは判らない。ヒューズの解釈は、意味は理解出来ても、実感には至らない。それは―――絶対的とまでは言わずと―――信仰対象を持たぬからと考えて良いのだろうか。
恐れの理由は、相手の善悪の有り様が不明だと言うことなのか。

「道徳に不信を抱いていると言うことですか」
「そう考えたが、実際の所は判らないな」

さっぱりとした口調には、判らぬことを悔しがる様子は無い。それは、どうやっても判らないものは判らないのだと割り切るヒューズを、そのまま表している。同時に、ヒューズがその相手に会うことはもう無いのだと感じた。

「俺は、神様の存在なんて考えたこともありませんけど」

正確に言えば、ハボックの中には元からいなかったのだし、多様な宗教を知った後も感銘を受けたり、それを支えとしようとは思わなかった。そもそも、信仰は能動から始まるのか受動から始まるのか、どちらが正しいのかも判らないし、正誤があるのかも判知らない。

「例えばそれが、忠誠を誓う相手なら、俺にとってそれはとても身近な人なんでしょう」

仮に許しを与えてくれる存在ならば、ハボックは神に助けを求めることの出来る存在ではない。血に塗れ、命令の下とはいえ、人の歩みを勝手に途切れさせている人間が、誰かに助けなど求めて良いはずがない。求めようとも思わず、求めることが無い。けれども、もし、忠誠を誓う相手へ求めることは、と問われるならば、そこに居続けてくれることと答えられる。それは、ハボック自身の有り様にも関わりがあるからに違いない。

耳を澄ますと、先程とは違うヒューズのゆっくりした息が聞こえる。この分だとしっかり眠りに落ちているのだろうと、その額に掛かる前髪を指で掬った。

「見止めてくれる者なら、俺にとって貴方も神様の一人ですけどね―――我侭聞いて下さって、ありがとうございます」

冗談など欠片も見えぬ深い眼差しで、好きだと言われて戸惑いや躊躇いよりも、ただ驚いた。自分でも知らない内にヒューズに対して、子どもの様に憧れを抱いていたから、ロイの護衛として認めてくれているだけで充分に嬉しかった。まさか恋情に発展するとは思わなかったけれども、今―――口には出さないし、これから先とて言わないが―――どうしようもなく好きになっている。何よりも護りたい者が互いに互いでは無かったから、これ程好きになれたのかもしれない。
だからこそ、依存はしない。代わりの様に、ずっと、尊敬している。

華に似た恋は、これが最初で最後と決めている。










ガラス越しではない視線の先。

「参ったな」

普段からは想像出来ない程に、あどけない顔で寝てくれている。伏せられた瞼に隠された蒼い瞳が現れる気配は無いが、ヒューズはそれを咎めている訳では無かった。

ヒューズも仮眠だらけだったが、実の所状態は、本人が重要視していないだけで、ハボックも似た様なものである。通常業務に加えて、ロイとヒューズの補佐をしている。睡眠時間は決して多くないはずだ。ヒューズが寝ればハボックも寝るだろうとの予想は当たったが―――最初から思惑に乗せる意図があった訳では無いので、ハボックも気付かなかったのだろう―――、もう一つある長椅子で寝るだろうと思っていたから、ふと目が覚めた状況に驚いた。なぜか、ハボックはヒューズの枕元で長椅子へ頭を預ける様にして眠っている。どんな状態であっても眠れる様にされているのが軍人ではあるけれども、それはそれ、これはこれであり。
ハボックが起きていない所を考えると、まだ眠り始めて一時間経っていないと考えていい。体内で時計をセットすることに関してはヒューズよりハボックの方が正確なので間違い無い。まだ一眠りは出来るが、傍で寝ていてくれている理由が何であれ、ハボックをこのままと言う訳には―――本人はともかく、ヒューズとしては―――いかない。

ソファの上へ抱き上げれば、さすがに起きるだろう、せっかく眠っているのだから邪魔はしたくない。ヒューズは身体を横たえていた長椅子から床へと足を下ろして座った。冬になれば氷の様に冷たい床も、まだ今の季節は何とも感じられない。ヒューズ自身も楽な体勢を取ると、ハボックの肩を静かに引き寄せる。

「ありがとな―――と」

おそらく、仮眠を勧めたことを自分の我侭と言うことにしているハボックを否定する気は無いが、そんな我侭であれば容易く叶えられることは知っていて欲しい。むしろヒューズの方がハボックに対して、結構に好き勝手しているのだから、我侭の種類は違うにしろ、気にする必要など無い。
おやすみ、と言うのもおかしいと思い、代わりに、自分の肩へ持たれ掛けさせた為に顔の直ぐ横へある金色の髪へ口付けた。















>>end


オフの続き物用にと思っていたのですが、短くまとまりそうだったので違う話に変えた所、えらくむずむずする話になりました。

(06/10/19)

back