オフ「貴方に捧ぐ恋の詩」収録ver。
 


焼け落ちた屋敷の上で、眼下の光景など知らぬと嘲笑うかの如く、祝福するかの如く、白く初月が輝く。盃を交わした相手の羽織が、一際強い風をなぞる様に翻った。

 

「伽をしろ」
秀麗な面を欠片も動かさず、室内では明かりの為に朱にも思える双眸が、鴆を臨む。月明かりの下では、金色の、月よりも強い存在感を持つ目は、瞬き一つしない。
「酒の相手じゃ、物足りねえか」
「足りてるさ」
酒の相手とは言うものの、行灯の明かりに照らし出された室内に、酒精の匂いは無い。代わりにそれを上回る、満ちた血の臭いが、鼻腔をかすめる。件の全焼後、奴良組の尽力もあり再建された屋敷、仕事用の部屋や寝間の他、無くても良いのにと思っていたにも係わらず、元の通りに建てられた離れには、夜の姿をしたリクオが時折訪れる様になった。
閉められた障子を開け放てば縁台へと続く。厳格な書院造の母屋とは違い数寄屋造のここは、気安い相手を招くには丁度良い。
付き合え、と示された酒瓶に頷いたのは本心からで、迎合ではない。ただ、何度かの、その時折の中、今まで喀血しなかったことが、思えば不思議ではあった。
「言うにしても、別の機会だろうが」
欲情するにしても、口許も、リクオの掴んだ手首までも鮮やかな赤い血に塗れて、鴆自身が着ている麹塵の単衣の袖にも、斑模様を見せている。色を誘うと言えば、正座の崩れた様な体勢から覗く脹脛だけだが、それでも鉄の生臭さが勝つだろう。
おかしいだろうに、と込めて口端を上げてみせると、意図を誤らず酌んで、んなこたねえよ、と言う。
「オレにしてみれば、今が機会だ」
くい、と顎で、血の付いた鴆の羽織を示す。
何の話か見えぬその仕草に、怪訝な表情を浮かべ掛けた鴆の胸に、生温かいものが込み上げた。またか、と思えども、押し止めるなど出来ぬ身体に、口許を空いた方の手で覆う。咳を押し退けて、指の間から零れ落ちる血に、身体を折るよりも早く、強く手首を引かれた。
「――――何……かは……っ――あ」
抱き締める様に肩を抱く手に、目の前にある胸元を押して抗おうにも、痛む身体は思う程に言うことをきかない。覆う物の無くなった口から、直に零れた血が漆黒の着物を染め、艶を帯びる。どうしようもなく、それでも、退けと胸に押し当てた手に力を込める鴆に、リクオの目が眇められた。
「離――ん、あ……はっ」
滴るでは追い付かぬ血が、溢れ出て黒と深緑を侵す。無意味だと知りながら、拒絶を口にするよりも、と口を噤んだところで、内から圧迫されれば、口内に含み切れぬ血が口端から伝い落ちて行く。更に押されればそれ以上は持たず、己でさえも酷いと思う音で吐き出した。
肩に痛い程の力が掛かる。引き寄せられ、自然、胸元に着きそうになる額を押し止めながら、内から来るものとは異なる柔らかな痛みに、支え様とする意図よりも、なぜか、かき消えそうな程薄くではあれども、何かを望まれる様に感じた。
だが、その理由を考えるよりも先に、痛みが急速に和らぎはじめる。同時に、呼吸も喀血も平静を得て行く安堵と共に、細く通る空気が、鴆の肺を徐々に満たして行った。
「――もう良い」
血の所為で嗄れた声ではあったものの、しっかりとした鴆の口調に、強がりでは無いと判断してくれたのか、リクオの指が緩む。それでも、何度か大きく息を吐く間も、離れては行かぬ肩と手首の手に、今し方の言葉の後半を繰り返すと、ようやく放された。
鏡台等無い部屋だが、初めて鴆を見る者であれば、恐れしか抱かぬ有様だろうことは、想像に容易い。手の甲の、まだ白い部分で口許を拭うが、さして意味があるとも思えなかった。
「悪い、汚した」
それよりも酷い着物へ目を遣る。
「いい、勝手だ」
「そう言う訳には行かねえよ」
オレの勝手と首を振られても、引き寄せられたと雖も、汚してしまった事実には変わりなかった。
通常の汚れとは違い、鴆が吐いた血は水では落ち切らない。洗浄用に薬を混ぜた湯で、拭くなり浸けるなりする必要がある。時間を経て行っても効力は変わらぬが、早い程臭いが抜け易く、己のみであればともかく、リクオの方は都合した方が良いだろう。主に腰辺りに張り付いた血に、眉宇を寄せる。
吐いた血自体は、傷口等に触れねば、今の時点で差し障るものはない。
肩から落ちかけた紗の羽織を掴み、まだ完全に落ち着いた訳ではないが、動くには支障の無い身体を、畳から離しかけた所で、二の腕を取られた。
「無理はするな。これはオレの所為だ」
「してねえっての」
休んでいろ、と含む声に答えた、鴆自身虚偽だと思いながらの科白に納得する位なら、問答等していない。
離すつもりなど欠片もない指先に、溜息を吐くと、立ち上がり掛けで浮かせた膝を畳に着く。胡坐を掻くのも億劫で、乱れた着物の裾もそのままに座り、行灯の揺れる明かりを映し出す目を見遣った。
羽織を肩へ掛けながら――気遣う位なら構わないだろうと、横に着いた手に体重を預ける体勢の為に――見上げたリクオは、男には過ぎる顔をしている。
「なあ――この身体の、何が欲しい」
鴆を呼び止めた理由は、血を吐いたばかりの身体をいとうてのことだけでは無いのだろう。
伽をしろと言う、真意が掴めない。
鴆とは異なり、ぬらりひょんは一族ではない。妖怪固有の血を、血統と言う形で以って残そうとすれば、子を生さねばならぬ。その為には当然、選ぶ相手が異性であることは必至だった。
戯れであれば、応じるに是非などない。ただ、戯れにしては固く真摯な視線に、その可能性は否だと告げられていた。
尤も、それに折り合いを付けて同性であると言う点を除いたとしても、鴆を望む理由は無い。薬師として以外、何の役にも立たぬ脆弱な身体と、他の妖怪より圧倒的に短い命。何より、己が身を己で守れぬ――否、保身がある故に守れぬ――妖怪など、妖怪の主となろう存在が睦言を紡ぐ相手には不要に違いない。
「鴆ではないお前までも」
だから、一体何が欲しいのか問うているにも係わらず、緋より尚濃い色に揺れる瞳は言い切る。二の腕に掛けられた腕をそのままに、真っ直ぐに見詰めた双眸が近付いた。
「お前は、オレが守る」
「ああ」
あの夜、そう宣告された。身体中の血が騒ぐ、肌がざわつく程の、深みのある声と、眼差しと、威を持って立つその姿に惹かれた。一度抱いた失望など物ともせず軽く覆したものは、歓喜と言って良い。
「終生、それは変わらねえ」
鴆の返答が何であろうと――リクオの望みを断ろうと――変わらない。物言いに、相手の都合等考慮することなく、最初からそう決めていたのだと知らされた。同時に、命を懸けて守ると、込められた真意に気付かされた。
身体が欲しいのではなく、鴆が、妖怪としてではなくとも、鴆自身を選ぶ。
目を開けたまま、唇が重なった。
「てめえに、惚れてんだ――鴆」
甘さを含んだ声音が耳朶を擽る。
盃を交わした時から、この目は鴆を欲していたのか、あの時から己の立場を知りながら、鴆を守ると覚悟していたのか、そこまでは鴆には知れない。
知らずとも良い。
「オレをこうやって支えたのは、その為か」
夜の姿をしたこの男の前で、痛みに身体を折ったのは今夜が初めてだった。本格的な夏を迎える前の、雨の月も末だと言うのに、肌寒さを覚える夜。
間近の唇が、弧を描く。
「ああ――オレがそうしたいと思った」
オレをお前の支えにしてくれなんざ、言わねえよ。
身体の話ではなく、心の話をさらりと付け加えて、小さく笑ってリクオは、鴆の二の腕に掛けていた手を、畳へ所在なく放り出していた手に重ねる。
「支えにしろとは言わねえ。ただ、オレを頼れ。鴆」
ただ、重ねられた手を、酷く温かく感じた。
「は、どうにも都合の良いこと言ってんな」
「色に呆けてる訳じゃねえから、心配すんな」
リクオに何の得があるのか、鴆にばかり条件が良い。それが、独占欲から来るものだと、分からないでは無い。頼れ、と強く思ったが為に、今が機会だったと言う。
盃を交わした相手だからではなく、惚れた故にと言ってのける。どこまでも真っ直ぐ、偽ることなく、我を伝える気質に、惚れるものは多いだろう。百鬼を率いるに相応しい器が、鴆に全てをと言う。
「盃交わした時から、元々オレはお前の物だ」
だが、妖怪としての忠誠に添うもの、それ以上を望まれるなど、鴆自身、考えたことすらない。
独りで生きて、独りで死ぬ。
先代でもあり、実父でもある妖怪がその寿命を迎えた数十年前から、ずっとそう思っていた。
伴侶が見つかれば別かもしれないが、鴆としての一族は、鴆が子を生さずとも、絶えることはない。一族より、最も妖として力の強い者が、継嗣となる。鴆自身の場合、偶然今代だった父の実子であった鴆が、認められただけだった。ただ先代も同様であったが故に、実子が跡を継ぐと思われている節もある。
鴆の血を持つものは、例外なく鴆としての定めを持つ。他の妖怪よりも圧倒的に弱い肉体と短い命。発作による喀血は珍しくもない。ただ分かり易いことに、妖として強いほど、その痛みが激しく、高い。
大人の境を迎えれば、短い周期で訪れる痛みに加えて、年を経る毎に強まる毒性は、やがて意志とは無関係に血液にまで及ぶ。死期に近付くにつれ、苦痛と引き換えの身体なのだと否が応にも知らされる。
尤も鴆自身は、それを悲観したことも、他の妖怪を羨んだこともない。ただ、先日、心底から命を懸けても良いと思える眼前の相手に出会えたことは、僥倖と思った。
「一つ、答えろ」
鶸萌黄の目を僅かに細め、リクオを見遣る。
「お前は、オレが脆弱で短命で、薬師として以外じゃ何の役にも立たねえと知ってる」
全て真実の事柄を眉一つ動かさず聞く朱色の目は、左右を逆さまにして、鴆を映し出す。試されているのだと分からないではないだろうに、欠片も動かない重ねられた手は、好い。
「オレが、己を厭うていると思うか」
「思わねえ」
目を見開きもせずに聞かれた問いに、一拍置いて、低い声が返る。迷っての一拍ではなく、一声で知らしめ言い切る為の一間に、だがそれよりも、苛烈とも言って良い程の双眸が、鴆を魅了した。同時に己の眼光が浅かったことを知らされる。
その色が、ふい、と楽しげに変わった。
「大体、てめえは端から己を憐れんでなんざ、いねえだろ。そう言う奴は、お前みてえな、首無やつららみてえな目はしねえ」
今だって、卑下しての科白じゃねえしな、と笑みを浮かべる。
「正解。悪かった」
「何が」
謝罪を口にした鴆にそう答えるリクオも、分かっていない訳では無い。言わば簡単な意趣返しで、気持ち良くすらある。
「オレがお前を甘く見てた」
体重を手に掛けていた姿勢を止め、鴆は重ねられた手の下から、血に塗れたままの己の手を抜く。膝立ちになれば、動作の勢いに抗えず衣ずれの音と共に羽織が畳へ広がり、音を立てて解かれた帯と共に、肩から落とした単衣が波打った。
「全て曝け出せはしねえ。けど、それ以外はお前に」
望まれる、当然の顔をして己が身を己で守れぬ鴆を、それでも守ると言うのなら、命の短さを嘆かぬのならば、傍にいる。
ただ真っ直ぐに見る、煌めく双眸が鴆を惹いた。
沈黙が落ちるよりも早く、障子の向こうから雨の匂いが漂い始め、すぐに立ち出した雨音が瓦を叩く様が、耳朶に響いて行く。
自然と笑みが浮かんだ。


2010/05/03(2010/08/31up) 


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