波紋が浮かぶ。
注がれた酒精に頭を下げて飲み干すと、良い飲みっぷりだと破顔するその容貌は、心を定めて盃を交わした相手と、瓜二つと言って良い。違うのは、両頬を滑る刺青と、完全に金の色をした双眸位だった。
「用事でもあったか」
火鉢を中心に、鴆を己の斜向かいに座らせた男は、愉しげに鴆を見遣る。
「少し。四半時程でお暇させて頂きたく存じます」
「構わんよ――代わりに慇懃な口調を止めい」
鴆自身、用事は終わったから、と集まりを抜けて来た身だった。
その帰り掛けに誘われた。抜けた集まりに共にいた牛鬼が、鴆の屋敷をおとなうことになっている為、一度は断ろうとしたものの、牛鬼が来るまでに戻れば支障はないだろうと、結局受けている。
「初代様は、何か、オレに用事でもありましたか」
それ以上に、普段の老爺ではなく、リクオと似た姿を取ってまで、鴆を誘った理由があるのかと、まどろっこしいこともせずに同じ物言いで問えば、肩が竦められた。
「さあの……そうじゃな、身体の調子はどうじゃ」
少し砕けた口調で納得はしたらしく、そこを咎められることはなかったが、肝心の理由ははぐらかされる。ただ、やはり偶々その姿で鴆を誘った訳ではないことは確かの様だった。
胡坐を掻いた足に乗せた手の上で、長い指がゆるりと盃を弄ぶ。
「特に悪いと言うことはありません。不調も、いつも通りですので」
「そう言う所は父親と似ておるの」
懐かし気に笑って、ぐい、と出された盃には、まだ酒が随分と波を作っている。怪訝さも一瞬、己の盃を置く代わりにそれを受け取って、口を付けた。先程同様に一息で飲み干して、懐の懐紙で口を付けた部分を拭う。
二杯続けて一気に呷れば、さすがに辛いが、ぬらりひょん相手には、それこそさすがにそれ以外は出来ない。
「どうでしょうか。貴方と父との遣り取りは少なかったですから」
「そうじゃな、鯉伴の方が記憶にあろうよ」
「――そうですね」
ぬらりひょんから見れば息子であり、二代目総大将でもあった鯉伴の姿は、鴆の眼裏にも鮮明に浮かぶ。何十年も前、鴆がただ、先代鴆の子として日々を暮らしていた頃から、鯉伴は時折薬鴆堂を訪れていた。先代鴆と知己だったとは、本人からも聞いている。そのどちらの姿も、今はない。
「お注ぎ致しましょう」
返した盃に、酒瓶から注ぐ。温かな部屋だが瓶は当然冷たい。呑んで何かが分かる程舌が利く訳ではないから気付かなかったが、銘柄を見れば、以前リクオが鴆の屋敷へ持参したもので、燗でも充分味の良いものではある。
「冷たいか」
「――……いえ、以前飲んだことがあると思い出しました。その時は燗でしたが、このままでも美味しいですね」
問われた意味が、瓶の冷たさであることにすぐに思い至らず、数拍開けて首を振ると、品定める様に、目が細まった。
「よく分かったの」
「何がです」
「酒瓶の冷たさを問うたことがじゃ」
訊きたいことの前振りだったのかと思いながら、表面上は気付かぬ振りで、回りくどいことをせずとも良いだろうにと首を傾いだ。
「まあ、何となくですが」
これは本当で、ただ思い当たっただけだったが、確かに普通なら脈絡がない。
「リクオの所為かの」
半分、ぬらりひょんの指摘は正しい。
元々、鴆であるが故に気を遣われる。重たい物を運ぼうとして、代わられたことなど、枚挙に遑がない。その下地の上に、鴆を酷く気遣うリクオの存在があれば、酒瓶の冷たさとの意図に気付くことは出来る。
尤も、そこが訊きたい訳ではないだろう嘗ての百鬼の主を見詰めて、口を開いた。
「酒瓶にまで気を遣うなど、人相手でもありません」
わざと薄く笑みを浮かべる。返す様に、ぬらりひょんはにやりと口端を上げて、盃を持たぬ手で、鴆へと手を伸ばした。
「ワシなら、そこまで大切にしてやろうよ」
二の腕を掴まれ、強く引かれて羽織が落ちる。強引さは手管の一つで、本当の荒々しさはない。引き寄せられ倒れ込んだ腕の中で、頤を掴んで合わされた視線の先、金色の双眸が鴆を映し出す。
動作に、思わず掴んでいたぬらりひょんの着物を離すよりも先に、その上から手を掴まれた。畳の上に、盃の落ちる鈍い音がする。
「あれもワシも、面は同じじゃ」
そうじゃろう、と同意を語尾に隠して、組んだ足の上に乗り上げている鴆を覗き込む。意図を持って軽く引かれた頤に、更に瞳との距離が狭まるものの、瞬きもせずに鴆が眺めている僅かな内に、ぬらりひょんの方から離れた。
端正な顔立ちは、確かに似ている。笑い方も、似ているのだろう。だが当然、ぬらりひょんとリクオは異なる。
「――大切にされるから、好きな訳ではありません。顔だけで良いなら、鯉伴様に恋をしていた」
答えた鴆に、頤から離れた指が首を辿り鎖骨の上で止まった。とん、と指が間の窪みを叩き、着物の合わせ目を他の指が這う。
「初代様――」
「抵抗せんのか。花唇の様に引いてはやらんぞ」
制する為に口にした名に愉しげに細められた目は、否、言うなれば言動全てが本心ではない。ぬらりひょんも鴆も、互いに、表面だけを遊びで繕って言葉を交わしているだけだと分かっている。
分かっているからこそ、虚構はない。鴆の覚悟を問う様な相手に、今だけの答えなど通用しない。
「出来るものなら致しましょう。ですが、オレの力では、貴方に抗えない」
無駄なことをしても意味がないのだと言外に含ませると、器用に片眉が動く。
「そうかの。惚れた相手に操を立てようとは思わんか。羽を使えば出来ようよな」
妖もそれぞれで、誰彼となく奔放な者もいれば、ただ一人と定めた相手しか受け入れぬ者もいる。後者は、元が人であった者に多かった。元々妖怪であり、一族ですらある鴆は区分するならば後者だろうが、今の問いの答えに、どちらであるかは関係ない。
「思えば叶うとでも仰いますか」
鴆が己の羽を広げれば、可能だろう。だが、それはしない。
相手がぬらりひょんだからではなく、鴆が己で定めた理由がある故に、しないと決めている。
リクオ以外に抱かれることを良しとする訳ではないが、掴まれた手首にすら抗えぬ鴆にはどうしようもない。己の気持ちがどうであれ、仕方のないことなど幾らでもある。諦観と思われ様とも、それが真実だろう。
「貴方でなくとも、オレはオレの保身の為に自分の羽を広げたりはしない。大体、高々身体一つで、態度を変える様な相手を好いた覚えはありません」
今は問答しているだけには違いない。だが、ぬらりひょんが本気で鴆を望んでの問いだとしても、答えは変わらない。
睨むではなく、ただ見返した金の双眸は、笑みを見せながらその実、奥に冷たさがある。
「――顔も綺麗で好みじゃが、良い目をしておるわ」
この妖の血は、笑みの下に冷たさを漂わせることが多い。
おそらく今のぬらりひょんも、鴆への問答故ではなく、それが常態なのだろう。数多の妖怪の上に立つが故に、常に持つ冷徹さを、リクオも持っている。
「憂慮されているとは思いませんが、一応申し上げておきます」
「うん?」
問答をするぬらりひょんが問いたいのは、リクオとの関係に他ならない。
奴良組を志を持って立てた男が、既に主を移した組の行く末をどう思っているか、正確な所を鴆は知らない。だが、数百年組が存続した今、誰が興そうが最早関係なく、奴良組は奴良組として構えていなければならなくなっている。興した本人として、先を気にして当たり前の話だろう。
合わせ目から離れた指が、耳から顎へと骨を辿る。感じるのは、単純に体温故の温かさだった。
「貸元としての鴆は、オレが子を儲けずとも立てられる。ぬらりひょんは、オレが死んでからでも充分間に合う。遊び事がしばらく続くとお考え下さい」
鴆同様に、リクオも分かっている。誰かに認めて欲しい関係ではないが、知れたところで問題にならぬのは、鴆の儚さ故だと言うまでもない。
誰でも容易に至るだろう考えを、声として明確にする。肯定を示す様に細まる金色に、なぜか宿った哀しさは、すぐに掻き消えた。
「どこに惚れておる」
口にされた科白の意外さに思わず瞬くと、鴆の様子がぬらりひょんには意外だったのか、小さく笑い声が零れた。そうおかしい問いでもないじゃろう、と軽く頬を叩く指先に気が緩む。
どうなのか、と問うてくる興味だけを乗せた目は、あまりリクオから見ることのない、子どもっぽさがある。何百年と生きる内に培った余裕ではなく、最初から好奇心が旺盛で、三代のぬらりひょんの中で一番向こう見ずなのだろう。その時代におらずとも、京に乗り込んだことを聞けばそれが証左と思う。
鴆が好いたリクオにも、好奇心もあれば向こう見ずな所とてあるが、それよりも、構えて待つ色が強い。
二度目に妖怪の血に目覚めた直後から、若頭、三代目として歩む道があったが故に、著しい成長を余儀なくされた。それは、鴆が継嗣、襲名に経た時間よりも余程短い期間でもある。本人に負担の色はまるでなく、負担ですらなかったにしても、確かに短い期間で、リクオは立った。
その過程の最初から、リクオは鴆を好いてくれていた。
ただ、鴆はリクオに望まれた時から、リクオを好いていた訳ではない。気付いたのは少し後だった。今、間違いなく好いてはいるものの、だが余人に話せる程明瞭は理由はない。
「分かりません――知らない間に、好きになってましたから」
リクオから触れられている時、触れている時、酷く心地良かった。
体温だけではない温かさを感じたのは、三代目となり百鬼を統べる男だけだった。触れられて鼓動が速くなる訳でも、甘い羞恥を覚える訳でもない。それでも、鴆にとって、恋情だった。
「……そろそろ時間ですので。もう、宜しいですか」
「おお、それ程経つか。時間を取らせたの」
あっさりと離れた両手が、鴆が足の上から下りる動作を助ける。
「軽いのう」
「見た目よりは軽うございますよ」
しみじみとした物言いに、笑って返す。足も手も借りたことに謝罪を伝え、畳に落ちた羽織を肩に掛けた。
飲んでいた盃を酒瓶の横へと寄せて、頭を下げる。
「それでは、失礼させて頂きます」
そう言って背を向けた鴆は、襖に手を掛ける。横へ滑らす寸前、名を呼ばれた。ぬらりひょんの方を向かずとも良いと伝える声音に、手の動きだけを止める。訪れた静寂は僅かの間で、低い声に破られた。
「お主もリクオも分かっておろうがな。ワシは反対しておらん」
存外な程に深い声で口にされた科白が、耳朶を打つ。口にはせずに、それは違うと目を伏せた。
関係を知りながら何も言ってこないのは、否、もっと直截に言えば、関係の清算を求められないのは、既に組の主がリクオである故か、もしくは鴆が口にした理由故と思っていた。反対も賛成も、思案の中にない。
反対していない、との言い方は、そのままの意味でもあるが、裏返せば賛成していないとも取れる。それが当たり前なのだから、今更何と言うこともないが、反対を明言されるよりは気持ちが軽い。
「左様でございますか」
「ああ――身体をいとえよ」
誰からも掛けられるその言葉が、気遣いなのか、それとも血縁の傍に長くあれとの祝福か、鴆には分からない。
「お心遣い、ありがたく頂戴致します」
ただ謝意だけを告げて、襖を開いた。
独りしかおらぬ部屋に、時折火鉢の炭が立てる音が響く。
随分軽くなった酒瓶から最後の一滴までを空けて、波紋が静まる様子を眺める。鏡の様になった面に、先刻まで相対していた、澄んだ鶸萌黄を映した。
「ワシからすれば、お主等は哀しく思えるわ――じゃが、それでも惚れておるなら」
何の立場もなければなどと、無意味なことは言わない。それでも、死んでからでも間に合うとあっさりと考えて、それを相手に求める。求められた側も、死ぬことを口にされても、それが当然と受け止める。
それは、好いているからこそだと、分からぬ筈がない。
「せめても、寿命を全うせよ――鴆」
惚れておるなら、幸せじゃろう。
脳裡を過ぎる、数百年も前に看取った愛しい顔に、笑みを浮かべた。
2010/05/21
書かなくても想像してもらうだけで良いかな、と思っていたのですが、つついて頂いて書きたくなりました。楽しかったですー、突っ込んで下さってありがとうございました。