数えるにも両の指の手では足りぬ程になるおとないに、気付かされた。
文机の左に置いた古文書に眉を寄せながら、右の料紙に書き取って行く。左の書物は既に読んだことがあるものだが、屋敷の書庫にはないもので、本家からの借用だった。
写本しても構わぬ、と言う百鬼の主の言に甘えて、揃いの十冊の内、まずは先に借りた五冊を書き取っている。ただ、ここの所仕事が立て続けで睡眠不足が続いている為に、疲れていた。それでも、借りたからには早めに返す必要もあれば、疲れている程度で休んでいては、鴆自身何も出来なくなる。
最初の一冊は残り三分の一、夕刻から、夕餉を挟んで続けている作業に、さすがに目に疲労を覚え始めていたが、もうすぐ終わることを考えれば、仕上げてしまいたい。
少し喉が渇いた、と思いながら、筆を進めて行く。途中、どこか慣れた温かさを微かに感じながら疑問も覚えず、集中していたこともあったのだろう、気が付けば最後の一行だった。
「肩痛え」
「お疲れだったな」
筆を紙から離して一息吐いたところで、唐突に声が掛かる。
「――っわ」
鴆自身以外誰かいるなどと思っていなかったから、心底驚いた。思わず声を上げて振りかえれば、廊下から入ってすぐ、障子に寄り掛かる様にしながら座敷の隅でリクオが片足を立てて胡坐を掻いている。
僅かに意外そうな色を双眸に見せながら、口許をにやりと上げた。
「珍しいな、気付かねえのは」
驚かせて悪かった、と言うリクオは、軽い衣擦れの音で立ち上がって、鴆の傍へと近付いて来る。鴆の斜向かいに腰を下ろして、軽く目を細める様子に、小さく笑って返した。
リクオが悪い訳ではない。
「いいよ。て言うより、オレが悪いんだし」
鴆自身、己が気付かなかったことが意外だった。具合が悪くて意識を失っている間以外で、他人の気配に気付かぬことなどない。本性が鳥である妖として、息をすることと等しい程に、気付く。寝ている時でさえ、誰かに近付かれれば目が覚めた。そう言う鴆を知っているからこその、リクオの言でもある。
余程調子が悪いのかと思ったが、疲労はしていてもそこまでではない。
「集中してたからかな」
自分で言いながら、その可能性は低いと言うよりむしろおかしいと思っているが、それでも他に考え付くことがない。己の不可思議な反応に心中で首を傾ぐ鴆に、リクオも納得した訳ではないだろうが、問う代わりに肩を竦めた。
「別に急がなくても構わねえよ」
文机の書物から、鴆のしていたことを見てとったのか、そう話す。
「そう言う訳にもいかねえよ、出来る時にやっとかねえと」
体調について、うっかり、と言う表現を鴆自身好んではいないが、うっかり具合を悪くして寝込むこともある。借りた物が一冊だけであればすぐ返せるが――事実、一冊済んでいる――五冊ともなれば時間が掛かる。調子が悪ければ速度は落ちるから尚の話だった。
「顔色悪いぜ」
「いつもだろ――つーか、来るなら来るで先触寄越せよ。そしたら待たせることもねえって言ってんだろ」
鴆を傍にと望んだ日から、時折薬鴆堂を訪れる様になった百鬼の主は、先触を一切寄越したことがない。いつもふらりと現われて、それは表玄関であることもあれば、縁側から上がって来ることもある。ただ、一度として先に知らせが来たことはなかった。
「待ってんのは嫌いじゃねえんでな」
「この間追い返されたのに懲りねえのかよ」
多少の用事であれば、後に回せば良い。それは、リクオに対してでも牛鬼に対してでも、訪れた相手に対する礼儀としては当然である。それでも中には、どうしても外せないことがあるから、念の為の意味合いと、迎える準備を含めて先触を寄越して欲しい。礼義だとまで口煩いことは言うつもりもなく思いもしないが、連絡の一つ位すぐだろうにと思う。
大体、薬剤の調合に手を空けられず、訪れたリクオを追い返した夜から、まだひと月も経っていない。謝罪はしたものの、客観的に見れば連絡を寄越さなかったと雖も、主に対して無礼な態度には違いないのに、笑ってばかりで眉の一つも動かさなかった。その後本家に詫びに行った際にも、先触を寄越せと言ったにも係わらず、以降もリクオは唐突に姿を見せる。
何が面白いのか全く分からない。
「オレが勝手に来てえ、それだけの話だぜ」
はっきりしていることは、あっさりとそう言うリクオが、鴆が先触のない訪問を迷惑だと思っていないことを知っている、その程度だった。
確かに、迷惑ではない。鴆としては、酒肴の用意が出来ていない不手際も、外せぬ用事で追い返す事態も、結局は再三告げても先触を寄越さぬリクオの責任であるだけだった。勝手に来る男に、いつまでも悪いと思い続けるなど――礼儀云々はともかく――勘違いも甚だしいことは考えない。
「――分かった。もう言わねえよ」
理由があるにしても、言わないのだから、鴆が知らなくて良いのだろう。溜息を吐いて、今後は一切気にせぬことを決めて目を伏せた。文机の古文書を傍の棚へ戻しながら、近付いて来る気配に畳の上へ置いていた茶を飲み干すと、いくらもしない内に、障子の向こうに側仕えが姿を見せる。リクオのことは知っていたのだろう、酒肴と茶の代わりが静かに置かれた。
手酌で飲み始める男は、温かな茶碗に手を伸ばす鴆へ、つい今し方と同じ様に目を細める。
「風呂入って、さっさと寝ろ。湯冷めする前にな」
当たり前の様に、あっさりと言う。
まるでリクオ自身のことなど、気に留めるな、と言わんばかりの言葉に、思わずゆっくり目を瞬かせた。リクオが自ら告げた、顔色が悪いとの見定め故なのだろうが、それにしても、よく分からない。
「お前、何しに来たの」
薬鴆堂は、貸元達の中では、距離的に本家と近い。だが、散策の途中に寄るにしては少々遠く、この夜冷え込む時季なら尚更だろう。酒の相手なり、雑談なり、貸元に対する用事なり、貸した本の回収なり、伽の相手なり、何かしら用件があって来たのだろうと思うのに、その言は怪訝である。主として惹かれた相手で、鴆が好いた相手ではあれども、高々半年近くの付き合い故であるのか、全く掴めない。
「てめえの顔見に」
わざと分かりやすく眉宇を寄せた鴆へ、妖怪の本性そのままに、表情も掴み難い男は、金色の双眸を愉しげに笑わせた。
本家の離れに近い廊下、歩く度に頭の奥底が響く様に思えて、数歩先にある縁側の柱に頭を預けた。夜の寒さが厳しくなって来た為か、思った以上に身体の疲れが取れず、僅かの喀血も続いている。
早々に薬鴆堂へ戻れば良いのだが、どうせなら借りた本の続きを持ち帰りたいとリクオに尋ねれば、鴆が本家に泊まる際によく使用させてもらっている離れにまとめて置いてある、と言う。本を借りたらそのまま帰るつもりで自分で取りに来たが、そこでそのまま眠ってしまいたい程だった。
「重――」
綴じられている以上、文書はある程度の太さが一般的で、だから五冊あった所でそう重たくはない筈だが、片手に抱えた包みは意外な程錘となっている。
今宵は総会であり、だからこそ本家を訪れていた訳だが、朧俥の中ではずっと横になっていた。具合が悪いことを悟られないだけの器量はあるが、どうやらリクオや幼い頃から付き合いのある牛鬼は――特に前者が――何か勘付く部分があるらしく、総会の座敷を後にする鴆の背を、リクオが追っていたことは知っている。
誰にも分らぬ様に完全に取り繕うことも出来るが、正直なところ単純に面倒だった。だから、他者へ取り繕える不調でも、ことリクオには、知られていない、知られている、半々だと思っている。尤も、その例外は別にして、誰の気配もない場所でまで取り繕うなど意味がなく、やはり少しでも寝てしまえば良かったかと思いながら、冷たい空気の中目を伏せる。いくらもしない内に、その中に紛れた気配を感じて、凭れていた柱から頭を離した。
「鴆、ここにいたのか」
後ろを振り向けば三間ばかり先の、玄関に遠い廊下の角から、総会で隣に座っていた男が顔を出す。
「牛鬼。よく分かったな」
本の遣り取りを耳に挟んでいたにしても、もう帰っていると思うだろうに、と含ませた言葉に、牛鬼は口許だけで笑う。
「俥があったのでな。まだいるだろうと――鴆?」
笑みで応じている最中、不意に身体の内に熱さを覚える。言いながら怪訝に眉を寄せる牛鬼に、鴆は手にしていた包みを押し付けた。牛鬼から顔を背けて、懐から取り出した懐紙で口許を覆う。
「ぐ――っ、は」
喀血自体は少量だが、鉄の臭いは強い。それは鴆にとって、着物に焚きしめた香や薬草の独特なにおいよりも慣れたものでもある。すぐに治まった咳に、口を拭って溜息を吐きながら、屈めていた身体を伸ばした。
「平気か」
「ああ――最近少し悪くってさ。もう帰るだけだし」
押し付けて悪かった、と言いながら、牛鬼へ包みを渡してくれる様に手を差し出す。眉を寄せながらも渡された、相変わらず思いと感じる本を抱え直す鴆の背後で、足音と同時に温かな気配が混ざった。
「それにしちゃ、時間掛かってんじゃねえか」
声に、息を呑む。
「――リクオ」
それだけで済んだのは、声の掛かる直前にリクオの気配に気付いたからだった。それでも、直前までまた、分からなかった。鴆の背後からゆっくりと横に並ぶリクオは、濃藍の羽織を揺らして、端正な顔で鴆を見遣って来る。
「帰りてえなら、送ってやる。じゃなきゃ、泊まって行け」
まだ微かに漂う血の臭いに気付いたのか、それとも今の様子を見たのか、どちらにしても選択肢は二つだけらしく、リクオは有無を言わせぬ口調で言い切って、鴆が持つ包みを取り上げた。
やはり、具合が悪いことは気付かれていたのか、と思う。時間が掛かっている、と言う位なのだから、本を借りたいと言った鴆に、猩影と話していたリクオの会話は長かったのだろう。
「泊まってくよ」
玄関で朧俥の有無を確かめた上で、鴆を探していたのか。鴆を案じていたのであれば全く、気を遣ってくれている。
「用意させる。先に母屋の湯殿使ってな」
答えに、本を片手にしたまま、羽織を翻す男の背を見送って、傍で同じ様にリクオを見ていた牛鬼へと視線を移した。
「そういや、何か用だったのか」
まさかリクオ同様、ただ鴆が心配で探していた訳ではないだろう。促すと、牛鬼は労わる様に鴆へ首を振った。
「いや、大したことではない。以前貰った塗り薬が少なくなってきたのでな。日を早めて貰えぬかと思っただけだ」
常に妖怪同士が抗争している訳ではないが、鍛練等で打ち身をすることは茶飯事である。武闘派の貸元へ宛てては定期的に日常でよく使う薬は送達しているが、今回、足りなくなったらしい。
「分かった。屋敷に戻ったら届けさせるよ」
文でも良いのに、わざわざ探してくれたのは、もしかしたら牛鬼も鴆の様子に気付いていたからなのかもしれないが、それには触れずに返すと鋭い目が詫びを見せた。
「済まんな」
「仕事の内だろ」
もっと割り切ってくれて良い。そう含んで、首を振って笑うと、いとう様に目を細めながら、隻眼は肯定を返した。
用意された離れで、賑々しい宴会の喧噪を遠くに、何も余計なことを考えずに寝てしまったことが良かったのか、覚醒時、頭の重さはなく、久々にすっきりしている。
空気の冷たさを覚えながら、元々躾けられていたにしては行儀悪く、今は手足を軽く引き寄せて、丸くなるようにして寝ている身体を掛け布ごと起こした。
ようやく外も明るくなって来たのか、縁側の障子が白い。
「――あれ」
寝起きで、散漫だった意識が、ふと枕元に置かれた包みに気付いた途端、明瞭になった。
床に就く前までは確かになかった、リクオがその手に持って行った本の包みがある。今更に、掛け布の上に一枚大きな濃い藍の羽織が掛けられていたことにも気付かされて、ここ二度の出来事の決定打を見せられた。
リクオの気配が、分からなくなっている。
抱き寄せられる、常にはない温かさにも慣れている。
鴆よりもしっかりと逞しくなって行く身体と、次第に上げねば合わなくなっている目線と比例するかの様に、百鬼の主は以前よりも慣れた手付きで鴆へ触れる様になった。元々、荒っぽい扱いをされたことなどないが、その上に共に居る月日が重なれば、どれ程にも丁寧になる。
敷き布の上で、力の抜けた鴆を胡坐を掻いた足の上に羽織ごと抱き寄せながら――鴆とても足を伸ばしてだらりと背を預けながら――寒い夜に障子越しに月明かりを楽しむ男の様子は、傍から見れば甘いのだろう。
「泊まってくのか」
空いた方の手で鴆の頬へ触れて来る指先に、寄り掛かる身体を起こそうとすると、阻む様に抱く腕に力が籠った。
「付き合うか」
「どうでも」
含み笑いの声に答えた鴆を、リクオは覗き込む。金色の双眸の、幼さの抜け切った容貌が見せて来るものは、艶めいたものではなく、ただ穏やかなものだった。気配も柔らかい。
この男の気配には慣れていた。きっと、慣れ過ぎた。
「そーいやさ、確認してえんだけど」
今感じている気配は、間違いなくリクオのものである。傍にいればはっきりと分かるし、そうでなくとも、目で見て、近付かれれば分かる、それが当たり前だった。喀血や身体の不調で意識を喪失した訳ではない限り、それが普通である。普通だと思う。
けれども、実は違うことに、気付かなかった。
「こないだ、離れに本持って来たの、お前だろ」
「様子見がてらな」
「――そっか」
いきなりどうした、と見上げる先の視線は言う。それへ、眉間へ皺を刻んだ。
「何か、お前が分かんねえみてえ」
鴆の言葉に、リクオは面白そうに双眸に色を乗せる。
分からない。リクオの気配が分からない。
以前はリクオにしろ牛鬼にしろ、誰が近付いても気配を感じることが出来た。人の寝間に入って来る様な妖はリクオ以外にはいないから比較は出来ないが、それでも前は気付いた。
おかしいと思ったのは、ついこの間。そしてその後も、時折。
「少し前に、酒樽持って来た時があっただろ」
「それが」
丁度、調合に神経を使う薬を扱っていた時。
「実際に姿見るまで、分かんなかった」
妖として、ぬらりひょんの畏を行使していた訳でも、気配を消していた訳でもないその気軽な様子にも係わらず、障子が開かれるまで気付かなかった。そもそもリクオは、気配を隠して屋敷を訪れることはない。ぬらりひょんの妖としての在り方が、捉えられぬ水月だとしても、他人の――相手が誰であれ――屋敷でのその行為は、忠誠と信頼に疑念を抱かせる故である。
書物や調合に集中していた分、足音に気付かないことは分かる。だが、近付く気配に気付かないなどと、考えたこともなかった。
「今日は分かったけどさ。多分、何か集中してたり疲れてると、お前の気配、分かんねえや。寝てる時は全く駄目だな――こないだ借りた本写してた時も、そうだったんだろ」
写本していた時も、薬の調合をしていた時も、駄目だった。休んでいた時に訪れたことがあると言うリクオのことなど、あの朝起きるまで分からなかった。
「困るか」
納得行った様な声音で、別のことを尋ねて来る男に小さく笑う。
「いーや。これに慣れたら慣れたで驚かなくなるだろうし、困んねえよ。分かんねえ気配、お前だけだしさ」
誰の気配にでも気付くのに、気付けなくなった。正確に言えば、リクオの気配に気付くことが難しくなったことに、然程衝撃を受けなかったのは、相手がリクオだからだ。
「あ、先触はやっぱり寄越せ。寝てる時に来てもオレ起きねえし」
覗き込む視線から目を外せば、やんわりと抱き締められた。くつり、と喉で笑うと、鴆の要望には答えずに、丁度耳元で楽しげに言う。
「分からなくなった割には、焦ってる訳でもねえんだな」
同じ様なことを考えているリクオに、鴆は、抱き締めて来る腕を軽くたたいた。
普通に考えれば、気配に気付けぬことは、鴆にとって重大な問題である。周囲を察知する感覚の鋭敏さは、鳥の妖であるが故であり、その点は三羽鴉達も変わらない。その感覚が効かず、間合いを侵食されたと言うことは、通常であれば鴆自身の力の低下を意味する。だがそれは、誰の気配も分からなくなった場合の話であって、リクオ個人に限定されるのなら、鴆にしてみれば問題無かった。
今までで一番、リクオが鴆の傍にいる。歳月の長さの話ではなく、ただその存在が近い。それに加えて、鴆がリクオに触れていて気持ち良いとも思っている。それならば、相応に鴆自身に変化があってもおかしくはない。
事実、牛鬼の気配は分かった。普段屋敷にいる傍仕え達の気配も分かる。分からないのは、リクオだけだ。
「お前のが分かんねえだけなら気にしねえよ。触れてたら気持ち良いし、オレはお前好きだし、お前はオレのこと抱くし。気配に慣れてもおかしかねえだろ」
むしろ慣れない方がおかしいのかもしれないが、それにしても鴆自身も極端ではある。今は起きていれば気配に気付くが、その内それも分からなくなりそうだった。そう言うものなのだろう、別に、構わない。甘い感情からではなく、それが事実である。
大体、無意識のことだから、鴆には治し方も分からない。
「そりゃそうだな」
首筋へ、柔らかな物が触れる。
きっと、生涯分からなくなるのだろうと思ってもやはり、分からなくて良いのだろうと、それだけしか思わなかった。
2010/09/01