縁側に飾った風鈴が、涼しげに響いた。
開け放した障子の座敷で、認めていた文から音の方へ顔を上げると、簾の向こうから続けて風が柔らかく吹いて、また涼感を醸し出す。
ようやく名残もないほどに落ちきった日の代わりに、月が昇り始めて空を明るくする様に、安堵に似た息を零して、文机の端に置いていた温い茶を手に取りながら、鴆は腹に手を当てた。やっと、何か食べたいと思っている。
この季節はあまり食べない、そもそも食べたいと思わない。
一年の内で、簡単に割っても三ヶ月間は暑い季節なのだから、毎年なるべく栄養価の高い物を、程度良く食べようとは思っているが、結局は果物等の水菓子をよく口に運んでしまうのは、本性の所為ではなかった。
空腹感は覚えるが、食事が疲れる上に、何かを食べたいとも思わなくなっている。食べることも面倒になるなど、然して珍しくもないが、身体に堪えることが分かっている上でのその選択肢は褒められたものではなかった。
元々、鴆の屋敷があるこの地は、余所と比べれば涼しい位置にあるが、それよりも、己の身体の弱さの方が先に来るから、夏になると毎年同じことを繰り返して、食が細くなる。
食事以外にも――食事をまともに取らない所為もあるが――身体も昼間は動かし難く、夜になり、涼しくなるとようやく身体が楽になる有り様故に、この時季は夜が遅い。
「――腹減ったな」
厨に何かしらあるだろうが、傍仕えを呼ぼうと思うよりも早く、廊下を歩く音がした。
「鴆様、少し召し上がりませんか」
「そうするよ」
含み笑いながらも、素直に答えた鴆に、廊下に畏まっていた傍仕えの妖怪が、珍しいとばかりに目を瞬かせて、それでもすぐに手元の膳を持ち、座敷へと入って来る。
文机から身体の向きを変えた鴆の前へ静かに差し出された膳には、卵焼きや刺身に、白米に漬け物は少量、多めに盛られた真っ赤な西瓜が目を引いた。吸い物はおそらくやんわりと温かい。
「貰いもんか」
「ええ、よく冷えておりますよ」
茶もすぐに持って参ります、と柔和に笑む老爺に、それにしても丁度良いことだと鴆は笑い返した。
「にしても、準備良いな」
そう言っても、今日とて朝昼も食べていない腹具合を見越して、それでも涼しい時間帯にならねば食欲のわかぬ鴆に、どうにか食べて欲しいと思ってのことだろう。長く傍にいるのだから、主の様子も大方察しはつくだろうが、今日は特に折り好くある。
「今日は特に、でございますか」
「その通り。全部食べるよ、ありがとうな」
思っていたままで言った男に、小さく肩を竦めた。
出された物を全て平らげることも少ないが、食べ物を粗末にしたい訳ではない。折角覚えた食欲に任せれば、たまには気遣いに応えられるだろう。
箸を付け始めた鴆に、下がる老爺の妖気が、見えぬ廊下の向こうで不意に揺れる。危機を感じさせる様なものではないことに、箸を止めずに食べ勧めていると、障子の向こうに、ゆらりと気配が集まった。
「邪魔するぜ」
「ああ――早いな」
見慣れた姿が鴆の前で長い髪を揺らして、風鈴の代わりに涼しげな音を立てる。夏の日、辺りが暗くなる時間は自然と遅いが、夜更けにはまだ早い時刻で、この男にしては珍しいと、斜向かいに座るリクオを見ると、くすりと笑う声が返された。
「それだけ食べてんなら安心したぜ。今日だけでもな」
「秋になれば、元に戻るさ」
鴆の夏場の状態などとうに見通されているのは、割と長い付き合いだからか、それともリクオの観察力故か、相手が鴆だからか、何にしても把握されていることが当たり前過ぎて、何とも思わなくなっている。大体、案じられていることは分かっているが、鴆自身どうしようもない。無理に口にしたところで、気分が悪くなるだけだった。
「どうだか。食欲より、てめえは読書や芸事だろ」
「芸って程達者じゃねえよ」
鴆が奏でる拙い篠笛を、なぜか好む百鬼の主は、芸への見る目がないのかとも思うが、鴆には劣るにしても――生きてきた歳月故にの話である――高い眼識を持っている。
尤も、好みは人それぞれであるのだから、リクオの耳には心地良いのかもしれないが、鴆には首を傾げるばかりの話だった。
「んで。それはともかく、今日はどーしたよ。何かの誘いって訳でもなさそうだが」
手に酒瓶を持っている訳でも、別段急ぐ素振りもない。散策には早い時間だから、途中でふらりと寄った訳でもないだろう。己の顔でも見に来たのかと思いながら、噛み切った卵焼きを咀嚼すると、ほんのりと塩を感じた。鴆の好みとしては、卵だけでも美味しいと思うのだが、食が進む様にとの配慮かもしれない。
もごもごと口を動かす鴆を面白そうに見ながら、リクオは胡座の膝へ頬杖を着いた。
「顔が見たかっただけだぜ。暑さでへたばってるってえから、平気かってのも込みでな」
「――ふうん」
予想の範囲内の答えに、何を思う訳でもなく、茶碗を手に取る。膳を食べ進める手を見ながら、たわいない話をリクオがする内、茶が鴆へ、リクオへは酒が運ばれた。
時折吹く涼しい風に響く風鈴に目を細めながら、ようやく最後の西瓜の甘さを楽しむ内、どうせこの早い時刻に来るのなら、と思う。
「出掛けねえか。てか、お前がここにいてもオレは出る」
誘いはするが、実際の所否でも構わない。
リクオが鴆の屋敷を訪れる様になった初めの頃から、リクオはおとないを事前に一切知らせない。鴆の方で、相手が出来ぬこともあるからと、幾度か、来るなら先触を寄越せと言ったのに一向に聞き入れない上に、鴆が好き勝手にすることが楽しいらしいリクオの都合など、今はもう考えないことにしている。
「ん?」
手酌で胡坐に片膝を立てて、上げられた簾の先、月明かりに見える庭を眺めていた金色が、柔らかく鴆へと向いた。どこに、と問うてくる視線に、もう一つ子ども染みたことを思い付いて、たまには遊んでも良いだろうと心に頷く。
「もっと涼しいとこ」
そう言うと、盃を呷ってにやりと笑った唇が、どこへなりと付いて行ってやるよ、と肯定を紡ぎ出した。
満月の明かりの下、随分と明るいが山の中ともなれば、生い茂る木々の葉で光は遮られる。それでも、妖怪の目からすれば、充分過ぎる程の明度に前を歩く鴆の足取りは確りとしていた。
夜の山中、出掛けに屋敷の者が渋い顔をしなかったのはリクオが付いているからで、鴆の方もリクオが鴆を見失うなどとは欠片も思っていないのだろう、一度も後ろを振り向かない。
涼しい所、との言からすれば、水の在る場所にでも行くのだろうと思うが、行く先を告げない鴆は、意外に速い足で裾から日に焼けぬ細い足首を動かしていた。
ふと、背を追う内に、リクオの耳に水音が混ざる。
「あ、そろそろだぜ」
言う間にも、涼気が足元を掠めて行く。幾らも歩かぬ内に激しくなる音が滝のものだと、その音以上に、立ち止まった鴆が袂の行灯に入れた火の先に見えた。鴆の隣に立って崖の様になっている場所から下を見下ろせば、小さな滝と滝壺に、月の光を煌めかせる沢がある。
「成程な」
「こっちから降りられるからさ」
見下ろす場から左手へ、降れる様に獣道が付く。草履の裏から、足場の悪さが分かるが、鴆に頓着する様子がない所を見ると、余程慣れているのだろう。薬鴆堂から、ここまで四半時も歩いていなかった。
「昼間にもよく来てんのか」
「来たいけど。屋敷から出るだけでも辛いからあんまり来れねえよ」
夜目にも随分涼しげな紗紬に、薄物の羽織を翻して笑う。
屋敷で見た時には、暑さの為にか、十日ばかり前に見た時よりも頼りなげな肩をしていたが、鴆自身が食べていないのだから、間違ってはいない。
人であれば、明らかに身体の持たぬ量しか食べていないにも関わらず、それでも持っているのは、妖怪故だった。手を伸ばせば余る程に、腰も細くなっている。
「やっぱり涼しいな」
軽い声音で立ち止まって、鴆は切り立った道から沢の方へと手を伸ばす。涼に触れている子供っぽい仕草が、酷く温かみを覚えさせるものだったのは、夜の闇に濃くなった鶸萌黄の双眸が、楽しげに揺れていたからだろう。
「落ちるなよ」
「そこまで鈍かねえっての」
鴆の持つ行灯を取り上げて、リクオが先に立って歩けば、僅かに眉を寄せたものの、軽い足音をさせる。
次第に、月明かりが届かぬ程に、上を木々に遮られていく代わりに涼気が強くなる中、不意に開けた視界に、沢の畔へと辿り着いた。
明るい。
「――見事だな」
木々の左右に分かれた空から降る白い月明かりが、滝壺と沢を照らし出した。小さな滝から流れ落ちる水の上で、煌めいて一時たりとも同じ形を見せぬ月が、妖の瞳にも幻想的に思える。
「良い散策だろ」
沢の端、大小の石ばかりが無造作に敷き詰められた縁を、ゆっくりと鴆は滝の方へと歩いて行く。腰掛けるには丁度良い、大きな一枚岩の辺りまでふらりふらりと歩く様は、涼しさからか随分と楽そうである。屋敷で水風呂に浸かっても涼は得られるだろうが、こちらの方が幾らも気が良いのだろう。
行灯を目に着いた大きめの石の上に置いて、細い背の後を辿りながら、天にある月を仰いだ。
薬鴆堂を訪れたのは、久しく――リクオの感覚に過ぎないが――鴆の顔を見ていなかったからだった。夏場になれば食欲が減退することは分かっているが、それでも鴆自身、己の生命を維持するだけの食事はしているのだから、その部分での心配はしていない。
毎年の話で慣れたからではなく、無理に食べさせた所で嘔吐するだけで、こればかりは鴆の問題である。また、足繁く通わねば、リクオが案じていると分からぬ鴆でもなければ、第一に、分からなくても良いことだった。
「気持ち良いー」
鴆の声に、水の跳ねる音が混ざって来る。
「――ああ」
ここにいるのだと、端麗な面で笑う姿を見に来た、目的は何よりそれだった。抱き締めたいと思うのは、その次の感情である。
だから今は、引き寄せたい。
「丁度良いな、この冷たさ」
心底心地良さげな声に足を止め、上げていた視線を鴆の方へと移すと、五間ばかり先で、鴆は一枚岩に羽織は敷物代わりにして腰掛け、滝を眺めていた時よりも更に幼子の様に、爪先で水を跳ね上げている。
いくらか空中を流れる水玉が、月明かりに白い。目を細めて見遣るリクオを、双眸は少し意外そうに小さく笑った。
「餓鬼みてえって呆れるかと思ったんだけど」
ま、良いけどさ、と膝の横に両手を着いて、だらりと伸ばせば甲辺りまで浸る足を、水の中で泳がせる。
「否――たまには遊んだって良いだろうよ」
目を惹かれた。
呆れるどころか、普段見せぬ、否、おそらくは今だけ零れ出した幼さが愛しい。同時に、リクオの返答に柔らかに笑む姿が、景色と相俟って幽寂で儚く見えもしていた。ただそれが、一軸の絵の様でもある。
「はは、良いこと言うなあ。牛鬼に見られたら呆れられそうだけどな」
膝を上げて水を跳ね上げる様に、止めていた足をゆっくりと近付けて行く。途中で、肩に掛けていた羽織を無造作に放って草履を脱いだ。滝壺以外は浅い、月の明かりに底が透けて見える沢の中へ足を踏み入れれば、心地良い冷たさがリクオの足首を擽る。
「どうだかな。あいつはあいつで微笑ましいんじゃねえか。長い付き合いなんだろ」
裾が濡れることなど承知で、鴆の傍まで水を踏んだ。
「さてね。まあ、鴆が奴良組傘下になって以来知ってる仲ではあるよ、先代の友人だったし。多分オレが知らねえ鴆の話も知ってるぜ」
身を屈めて、静かになった鴆の水に浸かる足の甲へ触れると、擽ったそうに喉の奥を揺らす。割れた裾から覗く、目の前の脹脛の細さに、やはり痩せたと思いながら、く、と髪を梳く様に引く感覚に視線を上げると、鴆が愉快気な色の目をしていた。
「尤も、オレについてなら、盃交わしてからは、お前の方が詳しいだろうけどさ」
嬉しいと、色に含まれた様に思えたのは、己の気の所為ではないと、リクオ自身がよく知っている。
まだ盃を交わして然程立たぬ頃、リクオに好かれていることについては嬉しいなどと思わぬ鴆は、鴆を最期まで見続けると伝えたリクオには、嬉しい、と返した。
鴆がそう思うなら、それで良い。リクオ自身、鴆に好かれたいと思って何かしらしている訳でも、鴆を甘やかす様に扱っている訳でもない。
ただ己が鴆を、愛しく思っているだけだ。
「そうだな」
滑らかな甲から離した手を軽く振って、水気を飛ばす。
鴆の手の上に重ねて瞳を覗き込むと、月明かりに普段よりも濃い鶸萌黄はゆっくりと瞼を上下させて、子どもの様な所作と不釣合な程に艶やかに口許を上げた。薄く開かれた桜唇を己のもので塞いで、リクオより冷たい舌を絡め取る。
鼻腔を擽る着物に焚きしめられた香に、愛しさ故の庇護欲までも掻き立てられながら、視線を合わせたまま口内を遊ぶと、流水ではない水音と、甘い響きが上がった。
「――響くな」
「屋敷よりはな」
甘やかさの中に笑みを含みながら言う鴆の唇を、舌で辿り、見た目よりも軽い身体を持ち上げれば、本性に加えて、食事具合で常に増して重さがない。
「気にするもんでもねえだろ」
分かってると思うけど、と、体勢に自然と首へ掛けられた手が、じゃれる様にリクオの髪に絡む感覚の心地よさに、口許だけで笑った。夜の、滝と沢の水音だけの空間は、ただの声でさえ透き通って渡る。
「気になるなら、塞いどいてやるよ」
「んー。ま、そう言うことがあったら頼む」
鴆の代わりに、岩へ腰掛けた。
引き寄せれば、抱き締めたいとも抱きたいとも思う。
膝の上に乗せた鴆が見下ろして来る少々あどけない様と、口付けで艶を含んだ目許に、その頬から柔らかな髪へと手を滑らせながら、細い身体を強く抱き締めた。
2010/08/22 無料配布本(2010/10/05サイト掲載)