>>prologue 「まったく今年のひよこは酒もひよこだな」 「本当そうですわ。にしても、ほんまこいつ弱かってんなあ」 お前等もやけどな、と嶋本が見る路上には黒いアスファルトと仲良く三人三様でひよこ隊が蹲って唸っていた。偏見を含めて、出身地を思うと誰もが酒には強そうに思えるのだが、嶋本達や黒岩と比べることが間違っており、唸る三人とて一般人と比較すれば今年のひよこ隊は十分飲める側に属している。ただ一人、眠りに落ちてしまっている青年を除いて。 「おい石井、お前少しは慣れろや」 真田の肩に背負われて瞼を閉じている、酒には滅法弱い盤は未だ頬を赤くしていた。偶然遭った居酒屋で相席したのが運のつきと言えばそうなるのか、黒岩からひよこ隊一人ずつに手渡された焼酎を強くないからと断り切れる訳もなく飲まされて、真田が自分の背中に重みを感じたのはその数分後。自分が寄り掛かった相手が誰かも判らなかっただろう、盤の緑色の髪が真田の視界に入った。 「神林、同期の世話ぐらい見とけ」 仮にも隊長に迷惑掛けるなとの嶋本の声に、済みませんと赤い顔で、だが足元はしっかりさせて真田へ近付いて来た兵悟に、別に構わないとそのままの状態にさせたのは背に当たる温度が心地良かったからなのか。優しいじゃねえか、との黒岩の声にそうだろうかとは心中だけで曖昧に返した科白はもう覚えていない。信頼する副隊長が北海道出身のひよこに懐かれて、格闘していたことの方が余程覚えていた。 そのまま閉店時間になり、黒岩に潰された兵悟達を、嶋本が一人、黒岩が二人、真田自身は相変わらず寝ていた盤を外へ連れ出して今に至る。 「どないします、俺等官舎じゃありませんし、こいつ等だけでタクシーに乗せても吐かれたら迷惑やし」 嶋本さん酷い、との兵悟の情けない声を無視して黒岩と真田に問い掛ける嶋本に、持って帰るかと答えたのは二人担いでも軽々としていた黒岩だった。 「ま、そうなりますかねえ。ったく、朝起きたら飯ぐらい作らせたるわ」 手間掛けさせよってと言う嶋本の顔に、それ程嫌悪感が無いことを微笑ましく思っている真田の、読み辛い表情に気が付いたのか、嶋本はばつが悪そうな表情を浮かべる。敵いませんね、と笑いながら店内で懐かれて困っていたわりにの佐藤を軽々と肩に担ぎ上げた。 「ふはははは、いい事言うなシマ。かみさんの手伝いに丁度いい」 この中で唯一の妻帯者の豪快に笑う黒岩が残り二人を路上に転がしたままタクシーを止めようと道の真ん中へ歩き出す。この界隈でこの時間なら引かれることもないだろうと陸の警察官には叱られそうなことを考えている真田に、そいつも引き取りましょうかと声が掛かった。 「いや、お前も一人で手一杯だろう」 いくら特殊救難隊と言えど、黒岩は別として二人も成人男性を担ぐのは辛いものがある。 「ま、そうですけど、そいつ起きたら煩いですよ。何なら交換しますけど」 普段の兵悟と盤の遣り取りに加え、ひよこ二人が真田に執心していることを知る嶋本の科白に、だが真田は首を傾げた。 「―――そうでもないと思うが」 以前偶然二人で話した時には、普通の人間を相手にしている以上に口数が少なかった覚えがある。もしかして自分一人だけの前と、それ以外とでは違うのかとも思うがそれはそれで事情があるのかもしれない。交換してもまったく問題は無いし、真田を思いやっての嶋本の発言に普段なら首肯する所はずだが、こじ付けにも似た理由で肩に担いだ青年を連れて帰ろうとしている自分をおかしく感じた。 「せやったらええですけど、あんまりやったら電話でも下さい。引き取りに行きますよって」 心配してくれる部下に申し訳無い様な気分にすらなりながら頷くと、タクシーを呼び止めることに成功した黒岩が戻って来る。小さいのによく担げるなと嶋本をからかう黒岩と、それに憤慨する態を見せる嶋本に別れを告げると、一度盤を抱えなおして駅へ向かった。 マンション最寄の駅を降りると、酒で暑くなった身体を覚ましてくれる気持ちの良い風が当たる。夏も近いがまだ夜は涼しく、寒がりなのかひよこの中でも一人だけ長袖のシャツを着ていた盤のくしゃみが聞こえた。起きたのかと、真田が抱え上げた腕を下ろして顔を上向かせるとそのまま地面に座り込みそうになる。寸でで腰を支えると、温かい物を逃さない様にべったりと張り付かれ、それでも寝息を立てていた。 「石井、大丈夫か」 よく起きないものだと変に感心しながら、これでは歩くことが出来ない。張り付きはしていたが力の抜けている手を剥がし空いていたベンチに座らせて、ふと、ずり落ちそうになっていた眼鏡を外すと端正な顔が露わになった。頬の赤みは大分引いているのでもう少しすれば目を開けるだろうが、ここで起きるまで待っていては真田も寒くなるし、盤は風邪でも引いてしまうだろう。眼鏡を胸のポケットへ挟むとベンチの前に屈んで、無意識なのか、暖を求めて伸びてくる手を後ろから回させて、盤を負ぶった。 グラスに注がれた水はすぐに持っている手にもその温度を伝えてくる。 熱いシャワーを浴びてさっぱりした気分でリビングへ戻ると、下ろしたソファで無防備に、自分の部屋にいるかの如く寝ていた盤が薄く目を開いていた。おそらくここがどこなのか判っていないのだろう、もしくは外した眼鏡の所為で視界が悪いのか。 「飲めるか」 台所へ寄り道してグラスに汲んだ水を目の前で揺らしてみると、段々と目が開く。ニ、三度瞬いて水と真田を見比べる、上目遣いの仕草が―――二十歳過ぎの成年男子に言う科白では無いかもしれないが―――可愛く思えて半分開いた唇から覗く赤い舌に、何かを煽られた。隊長、と何が嬉しいのか微笑む盤に目が細くなっていることが判る。部下と同じくらいきつい方言はこちらに来ても変わっていないのか、微妙に違うアクセントを独特の物として心地良く感じながら、飲もうとしない水を自らの口へ含むと、真田は盤の後頭部を引き寄せて重ねた唇から流し込んだ。 口内から音を立てながら流れ落ちて行く水が存外に冷たかったのか、それとも液体を飲み下す行為が覚醒剤となったのか、伏せがちだった盤の瞳がはっきりと開かれる。覚醒に離れ様とした真田の唇を拒む様に、口移しの為に開かれていた入り口から熱い物が侵入してきた。 相手の舌先なのだとおぼろげに認識しながら、それに嫌悪していない、拒まない気持ちが誤魔化しようもなく真田の中に存在する。口移しで水を飲ませる為に、後頭部にわざわざ手を当てた自分が拒むのもおかしな話かもしれないと思っていると、これ以上無い程近くにある端正な顔の中央に皺が寄った。 「笑う場面じゃなかとね」 濡れた唇からの突然の抗議よりも、その内容に少し驚いている真田を盤が下から覗き込む。 「隊長さん?」 不安そうに聞こえる声音に、悪かったと謝る真田の手が半ば無意識にその頭に伸びて、驚く盤を余所に触り心地のいい髪を軽く撫でた。再度眉根を寄せはするものの手を払ったりはしない盤をいいことに、真田は何度も髪に長い指を通す。互いに一言も発さずにしばらく続いていた行為をようやく盤の手が止めた。 「一体何とね、笑ったり子ども相手みたいに頭撫でたり」 「いや、柔らかいものだな」 「オイが聞きたいのはそれじゃなかとよ」 笑った理由が聞きたいのだと暗に含まされたことが判らない程真田も鈍くは無い。理由はどうであれ確かに唇を重ねている最中に笑われて気分がいい人間もいないだろう。 「説明し難いんだが。自分でキスするような体勢にしておいて、実際にそうなった時に嫌悪感を抱いたとしたらおかしいのだろうなと」 「……そげんこと言われても困るばい」 水を飲ませる為とは言え、最初にしてきたのはそっちなのだと拗ねた様に、だがそれ以上に不安を露わにして盤は真田から視線を逸らす。足りない自分の言葉が盤をそうさせたことに気付いて否定するが、その真田の言葉も足りなかった。 「違うぞ」 「……何がとね……」 キスをしたことに嫌悪感を抱いた訳では無いのだと否定の科白を告げても、相手に理解されなければ意味が無い。この場合、言葉が足りずに誤解されたことに気が付けはしても、言葉にした時点で、新たに足りなかった言葉で理解を得られていないことに真田は気付いていなかった。否、どうして通じないのかそれが判らず、結果齟齬が生じている。 相変わらず不安さを隠さず、たまに見かける時の自信満々さを欠片も見せない盤に、真田としてはこれ以上どうすれば良いのか判らない。判らないなりに考えて、再度、今度は頤を掴んで無理に盤の視線を自分の方へ向かせると唇を合わせた。 十割驚きで目を見開いた盤を真田の、片方だけ二重の特徴的な瞳が捉える。事態を把握して抵抗しようとした腕を、自分の有利な体勢を利用して盤の身体をソファへ押し付けて阻んだ。 「いきなり何する―――」 「違うと言っている」 抗議も何のその、違うの一点張りで己を見下ろしてくる真田と、その行動がどうにか盤の中で繋ぎ合わせられて理解されたのは数分経ってからだった。脳内からは眠気と酒気がすっかり去ってしまっている。 「隊長、判り辛過ぎたい」 「悪かった」 「謝るくらいなら最初っから全部言葉にしてくれたらよかとよ」 上官も前でも構わず、大きく溜め息を吐いた盤に、ようやく身体を起こそうとした真田の目に、シャツの襟から覗く引き攣れた痕が見える。その視線に気付いたのか、軽く盤が笑った。 「ああ、火傷の痕とね、珍しくもなかよ。オイの力不足の証さね」 あっさりと、それが真実で何とも言い訳しようが無いのだと言わんばかりの軽い口調を真田には否定出来ない、それは侮辱に他ならない。消防でも海保でも人を助ける際に大切なものは変わらない。判断力、実行力、経験値、諸々全てが救助と己の命を支えている。 「―――消防に未練は無いのか」 多分自分らしく無い科白だったのだと思うのだが、口から出た言葉は取り消すことは出来ない。だが盤は気にした風も無く、間を置かずに首を振った。 「オイ、真田隊長ば目標にしてここまで来たばい。他にも理由あろーもんけど、未練は無かと」 それまで欠片も見せなかった自嘲が初めて盤に浮かぶ。 「海保には似合わん傷やね」 火傷痕に自分の指で触れながら、盤は自嘲を消して挑む瞳で真田を見上げる。おそらくそれは、海上保安に挑む意味を含んでいるのだろう。否定と肯定、どちらを望んでいるのか真田には判らなかったが、彼自身は肯定をみなかった。 真田よりは薄く付いている筋肉と焼けていない白い肌に、不釣合いなはずの火傷の痕こそ盤自身の様な気がして、やけに、例えば言葉を宛がうなら愛しいとのそれがぴたりとする。一人で燃えている、そんな気すら覚えて襟から見え隠れする背中側の火傷と、胸の白い皮膚の境を指でなぞり、くすぐったさに捩る身を無視して肩の端まで辿り着いた。 「いや、これがお前なら似合わないことは無い」 人柄として真田は嘘は吐かない、むしろ吐けない人間なのだろうことはそう会話を交わしたことのない盤にも判る。一瞬の躊躇も無く否定した真田の科白が盤にはこそばゆく感じられた。 「くすぐったかね」 端まで行った肩から、また鎖骨の辺りまで戻って来る指と、先程の科白の両方がむず痒い。指と、僅かに覗く火傷だけではなく自身の目で見たそうな真田に悪戯染みた口調で誘いが掛かる。 「全部見たいなら、代わりに隊長も見せんと?」 真田のシャツを軽く引いて、序でとばかりに空いている手を支えにして盤は軽く身を起こすと掠めるだけ口を重ねた。柔らかな感触と、妖艶よりも、ただ無邪気な笑みに惹かれて、真田は相変わらず自分の下にある盤のシャツを肌蹴させると、日焼けの仕様も無いのに少し赤く引き攣れた肩へ唇を落とす。 どうして背中を貸したのか、交換に首を振ったのか、同性の青年に女性を主に形容する言葉が出てきたのか。目に付いた痕を見れば判るのでは無いかと、馬鹿らしいほど根拠の無いことを考えた。 互いに好きとか言ってくれないといちゃつかせようが無いのは技量不足なのですが…… 真田さんは嶋本さん相手だとよく喋りそうなイメージがあります(笑)。 (05/07/10) |